等価原理
悪魔に屈服した。柿沼は呵責の末に複垢の禁を犯した。別人に成りすまし感想の主に接近した。良心がざわめく。正義や緊急避難で抗弁してもどこか後ろめたさと恐怖が付きまとう。柿沼は斬新なスリルを作家目線で体験する喜びを覚えた。
「私もファンなんです」
何食わぬそぶりで誘導尋問する。不正な手段で人の心を覗く行為なんて嫌らしい男だ。いけないと思いつつ自己弁護してしまう。作家ほど汚れた職業はいないのではないかとさえ嘯く。読専を装うため幾つか偽りのいいね!をつけた。柿沼本人に類似した傾向の作品を読みもせず機械的に推していく。脳からドーパミンが溢れて心地よい。一通り出来上がったころ合いを見て核心に斬り込んだ。「どこが面白いんです?」
すると相手は会議ソフトのパスワードを送ってきた。いよいよ本丸攻略だ。
「毒を名乗る奴の顔が見たい」
柿沼はワクワクしながら指定の日時を待った。
「わぁ。やっぱり男の人だ♪」「じょ…女の」
開始と同時に驚きが衝突する。狸顔で森の小動物みたいな目つきだ。声もかわいい。
「看護師って使命感だけで出来ませんよね」
柿沼は白十字を労った。二十代ながら顔が疲れている。
「ええ、隙間時間の癒しがWEB小説なんです」
「柿沼の魅力って何ですか」
他人名義で訊くのも恥かしい。
「ズバッと纏まってて小気味いいですよね。山も盛り上がりもイマイチだけど私、転生とか開拓とか準備や手順の多い冒険がしんどくて」
白十字はシフトの合間に読んでいた。なるほど現実逃避の清涼剤か。生で聞く感想は嬉しい。柿沼は柄にもなく潤んでしまった。看護師はえっと驚いた。
「いやいやいや俺もそう思いますよ。王道とかテンプレって奴が嫌いで」
自分に嘘をついた。本当は羨ましかったのだ。自己実現を口実に一匹狼を気取っているが何処かで嫉妬が燻っている。複垢という別人格から冷静に見つめなおしてたった今気づいた。
そして彼は慌てて話題を変えた。まとめサイトの件だ。
「柿沼さんって活動家ですよね? 出る杭は打たれるご時世だし…」
白十字には成果主義に立ち向かう姿がそう映るらしい。
「連中の二元論は狂ってる。誰でも無料でアクセスできる読物が必要だ。知識や娯楽を金持ちが独占する限り貧者は貧者のままだ」
「無償の書き手はプロ作家の生活を脅かしませんか?」
「難しい問題だ。だが君は福祉の観点からどちらを救う」
踏み絵を迫る意図は毛頭ないが結果的にそうなった。
「医学も全ては救えません。残念ながら死は平等です。それでも救える命は助けたい」
白十字は模範解答を示した。
「問題は誰を救うかだ。脳死の延命措置より意識ある重傷患者が先だろう」
「トリアージ?」
小動物の瞳が見開く。
「そうだ。だが優先順位は生命の平等に反する。矛盾だ!」
柿沼が指摘する。
「その矛盾に葛藤してるんです。何で私こんな話してんだろ。もう落ちますね!」
白十字が切断する間際、柿沼が迫った。
「君はまだ質問に答えてない!食費と本代を天秤にかける苦学生か、それとも続刊打ち切りに怯える書籍化作家か?」
「もう切りますよ。本は医薬品ほど命に…」
涙目の白十字に柿沼が畳みかける。
「だが君は激務の癒しがWEB小説と言ったじゃないか!俺は無料で書いている!!どっちか答えろ!!」
「だって、それは…」
蛇に睨まれた蛙のように白十字は凍り付いた。
ふぅ、と柿沼は吐息した。黒くなる画面。
しばらく置いて彼は言い放った。
「答えられないよな。答えようがないよな。だって君は…」
ノングレア液晶にぼうっと光る面影。
「君がポイズンだからだ。君は天秤にかけた。しかも詐称だ。看護師ならシビアな問答を巧くいなす」
画面の輝度があがった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます