第四話「翠玉の施し」
扉を開けた先で二人を出迎えてくれたのは、いくつもの棚だった。それは様々な本が並んでいるものもあれば、錠剤や色とりどりの液体で満たされている薬瓶が並ぶものもある。
そのほかに部屋にあるものというと、書類が積み重ねられているデスクと、枕と薄いシーツだけが用意された簡素なベッド。部屋の中央に置かれた大きなソファだけが、ようやく人らしさを演出していた。
ここはロックの自室。医者の部屋と言われればそれらしいかもしれないが、どちらかといえば研究者の部屋という名目がふさわしいように思えた。
「どうぞ、座って」物珍しそうに室内のあちこちへと視線を配る少女に促す。その言葉通りに彼女がソファに腰掛けると、以外にも座り心地の良いそれに少女の体は受け入れられ、沈み込み、柔らかく揺れた。
「よし。じゃあ――」
自分はデスクの前に置かれた回転式のチェアへと腰掛け、くるりと少女と向かい合う。
「話の続きをしようか」
ロックがにこりと微笑めば、再び会話が始まった。
第四話「翠玉の施し」
「……と言っても、何も覚えていないんだもんね」
苦笑を交えながら話すロックに、少女が声色暗く「す、すみません……」と口にする。
それを「ううん、君が謝ることじゃないよ」と穏やかに
柔らかな乳白色の長い髪と、赤紫の美しい双眸。依然として表情は曇ったままだが、きっと微笑めば花々のように愛らしく咲き誇るのだろう。
しかし、ロックの胸中は彼女の容姿をただ褒めるだけには留まらなかった。彼女が非常に可愛らしいことは事実ではあるのだが、それ以上に膨らみ続ける疑問がある。
彼女の幻想的な容貌。高層ビルが建ち並び、人工光に照らされ、電子音が鳴り響くこの街では、彼女の存在だけが浮き彫りとなっていた。まるでお伽話から飛び出してきたような彼女の姿は。
「この街の、いや、この『断片』の人間じゃない……?」
そんな疑問を、ロックに抱かせるのであった。
世界というものが、
それはつまり、異世界というものが存在することを意味する。しかし、各々の世界に生きる人々は、自分が生きているこの世界以外にも世界があるだなんて、思いもしない。実際、「私は別の世界から来ました」などという言葉を口にしても、信じてもらえるのはその思考の異常性だけだ。
さて。
そんな世界の住民たちは、誰もが幸せに生き、誰もが幸せなまま人生に幕を引くことができるのだろうか。
答えは、否だ。おそらく誰もが幸せでありたいと願う
では何故、人々は幸せなままでいられないのか。
それは、誰かがどこかで、選択を誤ってしまうから。
生きるということに、何かを選び、捨てるということは、必ず付き纏ってくる。
例えば、食事を和食にするか洋食にするか、角を右に曲がるか左に曲がるか、友人の誘いに乗るか乗らないか。どんな些細なことに対しても人々は選択を迫られ、時には何かを選び、時には何かを捨てていく。
その選択の是非によっては、己が人生を大きく左右されながら。爆弾の導線の赤を切るか青を切るかを誤ることで、生命を儚く散らすこともあれど、選択の誤りによっては、それまでは見えなかった新たな可能性を見出すことだって然り。たとえ自分が正しい選択をしていても、第三者の誤りによっては、巻き込まれる形で人生に狂いが生じることもあるかもしれないし。
そうした数多の選択の繰り返しで、幸せが、不幸せが、はたまたどちらでもないものが形成されていく。なら、なるべく正しい選択をし、なるべく幸せな道を歩み、大団円を迎えたいと、誰もが思うに違いない。
ただ。
悲しくも当然ながら、誰もがいつ
それ故に悲劇へと進んでいく者たちのことを酷く嘆いたのが、
自らの、あるいは赤の他人の誤りによって破滅の道を辿ってしまう『誰か』の人生。それらを『断片』と彼は呼び、世界という枠を超えて断片たちを寄せ集めては縫合を繰り返し、やがて一つの世界を生み出した。
いつの日か、正しくない結末を迎えるもの同士、救われる見込みのないもの同士。負の数同士の積のように、交わり、お互いに手を取れば、新たな可能性を見出して、明るい未来を作り出し、それに向かって歩むことができるようになるのではと、信じられて。
そうして彼の手によって、この世界は生み出されたのだ。
ㅤ街の診療所を営む、あの医者の青年は。
この世界の創造という唯一無二の功労と、それを成すための強大な力を持つとんでもない人物だったのである。
まあ、その力の
しかし、彼の功労をこの世界に生きる人々が知る由もなく。断片の縫合によって生じた文化の混入に一時的な混乱もあれど、それはいつの間にか不自然なほど自然に混ざり合い、受け入れられ。誰一人として疑問に思うことさえなく、人々はあるがままの日常として過ごしていた。
だから彼は、世界の創造主だなんて物々しく崇められることもなく、とある街の一人の医者の青年としてこの世界に身を落とすことができるのだ。
ではなぜ、この目の前にいる少女に疑問を抱くのかと言われると、それはまたこの世界の仕組みが大きく関係する。
縫合によって、他の断片と完全な融合を果たした断片もあるが、そうではないものもある。無秩序に交わりを許せば、逆にそれが悪影響を及ぼして、より一層の不幸せを生み出す原因を作りかねないからだ。
だから、断片によっては『縫い目』と呼ばれる境界線を設けて、万物の
目の前にいる少女は、その容貌からして明らかにこの街を、この断片を生きる人間には見えない上に。
縫い目を超えるための条件を満たしているようにも見えないのだから、ロックが悩まされるのも無理はないのだ。
「あの……?」
いつしか頭を抱えてまで悩み始めていたロックを、少女が心配そうに見つめていた。「ああごめん、なんでもないよ」と笑みを浮かべて断れば、少女は疑問符を浮かべつつも身を引いた。
「せめて、名前だけでもわかればいいんだけどね」
誤魔化すようにそう呟いたロックは、「何か手持ちのものは?」と続ける。少女は自分の体をきょろきょろと見渡すものの、手がかりになるものは何も見当たらない。あの幻想的なワンピースにはポケットの一つもなく、それは当然といえば当然なのかもしれないが。
そんな少女の仕草を見守りつつ、ロックの視線が彼女の胸元へと移動する。そこには翠玉と思わしきブローチが、その身で照明の光を跳ねてきらきらと輝いていた。
「……よかったらそのブローチ、見せてもらってもいいかな」
ロックの言葉にきょとんとしながらも、少女は快く返事をして忙しなくブローチを胸元から外した。そしてそれをロックに手渡すと、彼も眺めるように視線を落とす。
「……これ、翠玉かな。だとしたら、随分と値が張りそうだけど……」
それは時折光を反射させて、ロックの目を焼くように
目を細めて、じっと見つめる。
「……ふぇ、える、くれ、でぃと……フェエル=クレディト?」
首を傾げて「これ、人の名前かな」と一人問うロック。「だとしたら、君の名前?」と視線を少女に移して尋ねると、少女も少女で「フェエル、クレディト……」と零すように呟いた。
ただ、数秒後に残念そうに首を横に振って。
「……わかりません。私の名前なのかもしれませんが、今の私には心当たりがなくて」
「そっか、まあ、そうだよね」
励ますように穏やかな笑みを乗せながら、少女にブローチを返還する。受け取って、胸元にブローチを付け戻した少女は、胸元にその翠玉の輝きがあることを確認すると、まるで安堵したかのように息を吐いた。
「でもまあ、多分、君か君にかなり近しい人の名前だと思うし……呼び名がないのも不便だから、君の本当の名前がわかるまでは、この名前で呼んでもいいかな」
黒い瞳に見つめられ、少女――もとい、フェエルは頷いた。
「フェエルちゃんは、これからどうするつもりだったの?」
ロックの何気ない質問に、フェエルは答える。
「とりあえず、街の中を歩いてみようと思っていました。じっとしているよりは、何か手がかりを得られると思って」
「それで歩いてたら、彼らに捕まっちゃったと」
頭に思い浮かべるのは、先ほどの三人組だった。ロックが偶然居合わせたからよかったものの、もしあの場にロックが現れなければ、今頃フェエルはどうなっていただろうか。
彼らが本当に善人だった可能性もなくはないが、あの場合は悪人を疑う他ないだろう。何より、ロックにはあの三人組の正体の推測が、なんとなくではあるもののついていた。
この街にも一定数いるのだ。そういう、排他的な価値観を持ち合わせた輩、もとい集団が。
自身に起こりうる最悪の結果の想像に、顔を青くして身震いするフェエル。
不安を煽ってしまったと、慌ててロックが謝罪を加えた。それから眉尻を下げながらも数秒ほど考えるような仕草を見せたかと思いきや、やがて妙案だと言わんばかりに口を開き、それを声に出す。
「ねえフェエルちゃん。君が良ければなんだけど……あてがないのなら、しばらくここにいない?」
「え?」
素っ頓狂な声を上げるフェエルに、にこやかに笑みを返して。
「僕、困ってる人を放って置けなくて……ましてや、女の子を一人になんかできないから」
突然の提案に、ぱちくりと瞬きを繰り返すフェエル。
ロックも言い終えてから、自分の言動の図々しさに苦笑した。「もちろん、嫌なら断ってくれてもいいからね」と付け加えた言葉に、「い、嫌だなんてそんな!」とフェエルが声を張って否定する。
ただ、そんな威勢の良さも
「とても、ありがたいんです。でも、今の私じゃお返しとか何もできないから……」
「お返しなんて、そんなのいいのに」
「わ、私がよくないんですっ」
譲らない彼女に、なかなか誠実な子なのだとロックが感心する。ならばどうするべきかと数秒考えて、また一つ提案。
「じゃあ、診療所のお手伝いをする……とかはどう?」
「これだったら、僕もすっごく助かるし」と微笑むロックに、彼女は未だ表情を曇らせ続ける。
「うう」「で、でも……」悩ましい声を上げながら、思考を繰り返した果て。恐る恐るロックに赤紫色の瞳を向ければ、
「ほ、本当に。ご迷惑ではないですか?」
「うん。むしろ、僕の側に居てくれないほうが心配で、困っちゃうかも」
そう話すロックに折れたのか。フェエルは一瞬黙り込んだのち、立ち上がると深々と頭を下げて、声色高く告げた。
「こっ、こんな私で良ければ、よろしくお願いします!」
ふわふわと揺れる乳白色に、くすりと笑みをこぼしながら。
「こちらこそよろしくね、フェエルちゃん」
ロックは、新たな同居人を歓迎した。
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