第三話「百戒、厄介」
伏せられた薔薇柘榴石と、結ばれた桃色の唇。それは何かを言いたげにたじろぐものの、決して言葉を生み出す気配はなく。
「……じゃあ、質問を変えようかな。君の名前は?」
そう言い終えてから、一拍。妙に真剣な表情で「……いや、こういう時は僕の方から名乗るべきか」と零しては微笑みを浮かべ、改めて少女へと向き直る。
「僕はロック=インフィニティ。この街で医者をやってるんだ」
「君は?」と続いた問いに少女の表情は晴れるどころか、ますます曇るばかりだった。これには流石のロックも自慢の笑みを苦笑に昇華せざるを得ず、苦し紛れに「あはは」と茶を濁してみせても、その功労は容易く手折られてしまう。
どうしたものかと思考に浸る、その直前。
すう、と小さく息を吸う音に気付いて、ロックはすかさず顔を上げた。
「……わから、なくて」
愛らしい桃色の唇からようやく紡がれた、まるで鈴の音のような声。微かに躊躇いを含んだそれは、ロックの鼓膜を静かに揺らしながらも、その音色を続かせる。
「何も、覚えていないんです。自分の名前も、何をしていたのかも――」
辿々しく言葉を連ねる彼女の姿を、星空が見下ろしていた。
第三話「百戒、厄介」
「……なるほど、健忘――いわゆる、記憶喪失か。それで、困り果てているうちに彼らに話しかけられたと」
冷静に判断するロックを、少女はただ不安そうに見つめていた。
自分が誰なのかも、ここがどこなのかもわからず、行き場もなく――そんな彼女が胸中に抱える感情は、当然不安などという言葉には収まらないだろう。瞬きを繰り返す紅紫色の瞳は、憂いを帯びていた。
心苦しげに佇む少女を一瞥、それから空を見上げる。
――今日は、珈琲を飲んでいる暇なんてないな。
「とりあえず、場所を移動しようか。もうだいぶ暗いし……いつまでも、ここで立ち話してるわけにもいかないしさ」
視線を少女に向け、そう言いながら微笑みかける。「ね?」と改めて提案を強調するも、少女がその場から動く気配は何故かなく。
それどころか、あの愛らしいはずの双眸は、嫌疑にも近しい眼差しをロックへと向けていた。
まるで疑うような彼女の視線。呆気にとられてぱちくりと瞬きを繰り返しつつも、ロックはその眼差しの真意を探る。
この短時間で、何か彼女の気に触るようなことをしただろうか。なるべく好意的に、なるべく笑顔で接したはずだし、何より自分には下心も一切ないのに――そう思案しながら、ロックの思考が行き着いた先は。
「――いや、僕はさっきの人たちとは違うからね!?」
先ほどの三人組が、頭の中でニヤリと笑う。
それを思考の隅に追い払っては、ロックは必死に腕を横に振り、己の堅実さの証明を試みた。
***
「ここが僕の診療所。まあでも僕だけじゃなくて、僕の妹も手伝ってくれてるんだけどね」
あれから一悶着ありながらも、なんとか少女の説得に成功したロック。そんな彼に連れられ、少女が行き着いたのは、ロックとゼクスが二人で営んでいるあの診療所だった。
「そういえば、医者って」確かめるように少女が呟くと、ロックが笑みを携えて頷く。
「さあ、入って」
物珍しそうに眺める少女を促して、診療所の中に足を踏み入れる。
たちまち漂う消毒液の匂いに鼻腔をくすぐられながら、ロックの背を追うように廊下を進む少女。時折辺りを横目で見やれば、白で統一された内装に清潔感を覚えた。
「……、……」
二人が廊下を進む最中、微かな話し声がロックの鼓膜を揺らした。
思わず足を止めた彼に、つられて少女も立ち止まる。不思議そうに向けられた薔薇柘榴石の視線の先、きょろきょろと音の出を探っていたロックがやがて見つけたのは。
診察室と書かれた部屋の扉の隙間から漏れ出る、蛍光灯の光だった。
「……誰か来てるのかな」
差し込む昼白色に目を落としながら呟けば、「ごめんね、ちょっと見てきてもいい?」と診察室の扉に指をさして少女へと伺う。こっくりと頷いた彼女に微笑みを乗せて礼を述べ、「じゃあちょっとだけ待っててね」と一声告げては扉に向き合い、真実を確かめるべくドアノブに手をかけた。
「お取り込み中のところ、失礼しまーす……」
恐る恐る扉を開いてみると、中で談笑を繰り広げていた二人の人間が気付いてこちらへと振り返った。
「兄貴?」
そのうちの一人はゼクスだった。「もう帰ってきたのかよ」包帯のせいで相変わらず表情が伺えないが、その声色には少しばかり驚きを孕んでいたように感じる。「まあ、ちょっとね」含みを持たせて返しつつ、ではもう一人はと視線を向けてみれば。
「ああ、
その姿を視界に捉えたロックが、瞳を細めて親しげに名を口にすると。
「お、おう」
青く澄んだ瞳をぱちぱちと瞬かせながら、葵と呼ばれた青年は、歯切れの悪い返答をした。
「それで――」
にこやかな笑みを浮かべつつ、ロックが葵の姿を一望する。
年齢はちょうど、ゼクスと同じぐらいだ。白いティーシャツの上に鮮やかな水色のパーカーを着こなしている彼からは、誰もが年頃の青年らしい爽やかな印象を受けるだろう。染められていない黒の短髪と、まるで晴天の空のような天色の瞳が、誠実さまでもを演出してみせた。
ただ、一つ――いや、二つ三つ、気になる点を除けば。
「葵くんは、今日も怪我の治療?」
とんとん、と自身の頬をつつき、示すように問うロック。見れば、葵の右頬には大きなガーゼが当てられていた。
おそらく怪我をして、その治療を施した痕なのだろう。しかし改めて目を凝らすと、指先にはいくつもの絆創膏が、腕と首には包帯さえ巻かれている。今見えていないだけで、もしかすると服の下にも治療痕はあるのかもしれない。
今日も、と語られたロックの口ぶり。葵の身体に施されたいくつもの治療の痕。
それらから考えるに、どうやら葵は――この診療所の、常連患者のようらしい。
「……最近、鍛錬の内容がハードなんだよ」
気まずそうに、
僅かな緊張感を携えて、沈黙があたりを支配した――のも、つかの間。
「あ」
思い出したかのように声を上げれば、ロックは忙しなく廊下へと顔を出した。
「ごめん、待たせちゃってたね」詫びる先は、先刻の少女。暇を持て余し、廊下を見渡していた彼女は、いきなり声を掛けられ肩を跳ねらせるも、すぐさまにへらと柔らかく笑みをこぼして、
「いえ、大丈夫です。私のことは気にしないでください」
その見知らぬ声に、ゼクスが怪訝そうに口をへの字に曲げていた。
「……おい兄貴、誰か連れてきたのか?」
「うん。ちょっと訳ありで」
妙に重たい声色で問うゼクスに対し、悪びれもせずに答えるロック。それどころか彼は「おいで」と少女を手招いて、彼女の愛らしい容貌を披露する有様だ。
恥ずかしげながらも二人の前に姿を晒せば、少女は初々しくお辞儀をする。その様子をにこにこと見守るロックとは対照的に、葵は驚きからかぎょっとした表情を見せ、ゼクスは逆に一切の反応も見せずに固まっていた。
「じゃあ、僕たち部屋で話してくるから。葵くんはゆっくりしていってね」
そんな二人のことを気にもとめず、ロックはひらひらと手を振りながら、少女を連れて診察室から出て行った。
診察室に残された二人。葵が恐る恐るゼクスの方を振り返れば――。
「……アタシ、厄介ごとは持って帰ってくんなって言ったんだけど」
低い声で呟いたゼクスを、葵は必死になだめるばかりだった。
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