第一話「最初の白」

 少年の鼻腔をくすぐる、消毒液の匂い。それは、ここが医療に携わる場であることをよく示していた。


 夕陽に晒され、飴色に染まる街並み。その中にひっそりと佇む、小さな診療所。

 その一室で。少年はただひたすらに、じっと、あるものを見つめ続けていた。

 

 ――ひと巻き、ふた巻きと、自身の細い腕を、真白い包帯が覆う様を。




第一話「最初の白」




 少年の腕に包帯を巻いているのは、まだ若い医者の青年だった。黒いスーツの上から白衣に身を包んだその容姿は、一見厳かな印象を抱かせるものの、彼の持つ穏やかな眼差しがそれを和らげてくれる。優しげな黒い瞳で少年の腕を見据え、一つに結った長い黒髪を揺らしながら、彼は手早く包帯を扱っていた。

 そんな医者の慣れた手付きと、包帯の軌道に沿って少年の視線が揺れ動く。やがて包帯が端まで到達すれば、医者がテープを用いてそれを留めてみせた。


「……よし。これでいいかな」


 その言葉は、処置が終了したことを告げていた。最後に目視で問題がないことだけ確認すると、医者はゆっくりと少年の腕から手を離す。自身の腕が解放されたことを理解した少年は、様変わりしたそれを、まるで自分のものではないかのように眺めていた。

 それはもう、実に不思議そうに自分の腕を見つめ続ける少年。その様子を横目にくすりと微笑みながら、医者は机の上に転がるペンを取り、一つ二つとカルテに何かを記入する。


「まだしばらく痛むと思いますので、痛み止めも出しておきますね」

「ああ、ありがとうございます、先生」


 医者の言葉に、それまで後ろでずっと見守り続けていた少年の母親が、ずいと身を乗り出して頭を下げた。未だ心配そうな面持ちではあるものの、彼女の表情の中にはどこか安堵が見える。我が子のことを、実に案じていたのだろう。

 そんな母親の様子に思うところがあったのか、なかったのか。少年は自身の腕からようやく視線を外すと、きょとんとした表情で母親と医者とを交互に見やる。そして、意を決して彼が口を開けば、


「ロックせんせ、あの……ありがとっ」

「ふふ、どういたしまして」


 にこやかな笑みを乗せて、医者は――ロックは、言葉を返した。




「診察室を出てすぐ左に、お薬を受け取る小窓があります。処方箋は僕から渡しておきますので、小窓の前で待っていてください」


 診察室からの帰り際。ロックが診察後の流れを説明していると、不意に母親が「あの」と小さく話を遮った。

 「なんでしょうか?」ロックがそう返すと、彼女は申し訳なさそうに眉尻を下げながら続きを口にした。


「本当に、お代はいらないのですか?」


 お代――それは、おそらく診察費や薬代のことだろう。

 医療機関での受診というのは、多くの場合で料金が発生する。加えて検査や施術を行えば、その分だけ金額は増加するし、薬が処方された場合もまた然りである。

 だから今日この場においても、この少年と母親には、その代金を支払う義務が課せられる。母親もそれをわかっていて自身の息子をここに連れてきたはずだし、無論、彼女も元から支払うつもりだったのだろう。

 しかし、まあ――不思議なことに。


「大丈夫です。お気持ちだけ頂ければ」


 穏やかに微笑みながら返した、彼の言葉通り。

 この診療所では、ほとんどの場合で患者が金銭を支払うことがないのである。たとえ患者に支払う意思があろうがなかろうが、この診療所を営む者たちは、謝辞以外の対価を一切受け取ろうとはしない。それが、この診療所を営むロックの方針なのだ。


 彼の言葉に、また何度も彼女は頭を下げた。ロックが笑みを崩さないまま「お大事に」と声を掛ければ、「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にして、二人は診察室を後にする。


 廊下に出た二人。ロックの言葉通り左を確認すると、そこには確かに小窓が設けられていた。少年はそれを示すように指を差して「つぎはあそこ?」と母親に尋ねる。「ええ、そうよ」返す母親の言葉に納得したのか、彼は近くに用意された長椅子に腰掛け、小窓が開かれるのを待った。そのかんには、「腕痛い?」「うん、まだちょっと」「大丈夫。すぐに良くなるわ」と、小さな会話を交わしながら。


 数分ののち、がらっと音を立てて小窓が開かれた。その音に反応して二人が小窓を見やると、その向こうには一人の少女が少年のものと思われる薬袋を手にしていた。


 シャギーの入ったボブの黒髪が、さらりと揺れる。白いブラウスと黒いミニスカートの上から白衣に身を包んでいる姿は、見ようによっては医療従事者のようにも思える。しかし、彼女の両目を覆うように巻かれている包帯のせいで顔つきも表情も伺えず、それが怪我によるものでも、ファッションによるものでも、彼女に対して近寄り難い印象を植え付けているのは間違いなかった。


 先ほどのロックとは一風変わった雰囲気の彼女に、少年の母親は面食らったように固唾を飲んだ。しかし、彼女の息子は、それをものともしなかったようで、


「ね、これぼくのおくすり?」


 無垢な瞳でそう尋ねる少年に、少女の方がぎょっと口を開いた。

 自身の風貌から、まさか声を掛けられるとは思っていなかったのだろう。躊躇いながらも「そう、だけど」と辿々しく返すと、少年はたちまち表情を明るくして「ありがとう!」と、包帯を巻いていない方の腕で薬袋を受け取った。


 二人が出入口へと歩みを進める。扉の前で一度立ち止まったかと思えば、母親が振り返り、少女へと頭を下げた。それに対して特に反応を見せない少女だが、それは決して無愛想というわけではなく。


「おねーちゃん、ばいばーい!」


 少年のその元気の良さには気圧されて。ふるふると小さく手を振って見せる彼女は、ただ少しシャイなだけである。


 やがて診療所の扉が閉まり、二人が去っていった。それを見届けた少女がふう、と小さく息を吐けば、後ろからくすくすと笑い声が聞こえるではないか。


「珍しいものが見れたなあ。まさかゼクスが、子供とあんな風に接するなんて」

「っ……見てんじゃねーよクソ兄貴」


 少女――ゼクスが振り返ると、そこにはにやにやとした笑みを浮かべて彼女を見るロックの姿があった。「動画でも撮ればよかったかな」と言い加える彼の姿に「ふざけんな」と一蹴するゼクス。その声色には、苛立ちと羞恥心を孕んでいた。


 ゼクスが「クソ兄貴」と読んだ通り、この二人はまさしく血の通った兄妹だった。一見真逆の雰囲気を持つ二人だが、同じ色の髪を併せ持っていることなど、確かに共通点は見られる。悪態のつくつかれるはあるものの、決して仲が悪いわけではないこの兄妹は、たった二人だけで、この診療所を営んでいるのだ。


 己が妹の反応を一通り楽しんだ後。ロックが窓際に寄り、白いカーテンを開けて空の様子を伺った。

 薄い雲を纏いながらも、夕闇に身を任せたそれは、もうすぐ夜が訪れることを示していた。


「もう暗くなってきたし、今日の診察はこれで終わりかな。ゼクスもお疲れ様」

「ん」


 労いの言葉をゼクスに掛けると、ロックはおもむろに白衣を脱いで、それを彼女の腕の中へと押し付けた。あまりの図々しさに唖然としながらも「……どっか行くのか?」とゼクスが問えば、「珈琲が飲みたくてね」と返すかたわらに、ロックは結っていた髪を解いた。

 「珈琲?」そんなもの、家で飲めばいいのに。というか、白衣くらい自分で片付けやがれ――そう思いつつも、口に出すことさえ面倒で渋ってしまう。

 ただ、それでも一つだけ念を押して。


「……なんでもいいけど、厄介ごとだけは持って帰ってくんなよ」

「だいじょぶだいじょぶ」


 そんな彼女の心配もよそに、ロックは診療所を後にする。彼女の言葉に振り向きもせず、ただひらひらと手を振るだけの彼に、ゼクスの口からは思わずため息がこぼれた。


「……でもま、兄貴なら大丈夫か」


 困ったように肩を竦ませながら、ぽつりと呟く。

 心配なんて杞憂だろう。なぜなら、兄がどれほど良くできた人間かなんて、自分が一番よく知っているから。


 腕の中の白衣を抱え直して、ゼクスは後片付けを開始した。

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