有視界飛行、彼の場合

二日も作品が書けないと体調不良になる。肉体的な症状ではなく、心因性のものだ。

 意識がぼんやりして、身動きするたびに大脳皮質から語彙がこぼれ落ちていく。

 強迫観念がありながら、どこかで楽になりたい自分がいる。

 書かないでいるときは確かに楽だ。

 ただ、何を見聞きしても感慨がわかない、残らない。

 言葉が風のようにただ吹き抜ける。

 塵のような情動の残滓が落ちていて、その一つ一つに風景や喜怒哀楽が宿っている。

 それは、第三者視点の自分が感覚的に理解しているのだけど、積極的に解決しようという気分いなれない。

 砕け散ってしまった小説のかけらたち。

 それらを拾い集めて、一つの作品に組み立てることはもはやできない。

 壊れた瞬間に小説のエッセンスともスピリットともつかぬ妖気が揮発してしまったからだ。

 ルーチンワークに溺れていると、小説家であるはず。いや、あるべき自分が希薄になっていく。

 今日は落とすかもしれない。

 今日でエタルかもしれない。


 そんな警告音声が脳裏を駆け巡る。

 忙しい時は「あああ、早く帰らないとアイデアを忘れてしまう」と勤務先で焦る。

 しかし、帰ってきたら書けない。

 書かなくちゃ(明日でもいいよね)

 書かなくちゃ(読者は待ってくれるよね)

 悪魔と天使のささやきがリピートする。

 いたずらに時間だけが過ぎていき、今日という一日の終わりに近づいていく。

 書かなくちゃ。

 夕食を片づけたら。

 7時のニュースを見終わったら。

 いろいろと理由をつけて休む。

 やがて、内なる自分の誘惑に乗って問題を先送りしてしまう。

 そして、いよいよギリギリになって机に向かう。

 ストックがなくなると、作品は書いて出しの自転車操業になる。

 一度停まった物語を再起動する作業は困難だ。

 地の文が浮かばない。キャラクターが動かない。脳裏に情景が沸き出さない。

 しかし、断筆の恐怖と戦いながら、ポツポツと文字を書き連ねていく。

 すると、物語が動き出すのだ。

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