暗雲、彼女の場合
「書けない」に対する私の苛立ちは、怒り、嘆きに繋がる。
自分は誰なのか。自分はどんな世界に生まれたのか。自分は何者なのか。
つい先ほどまで一字一句たがわず記述できた。
それが雲散霧消した。
自分という存在を信じていたのに。
そして彼を信じろと強く念じた瞬間から、彼に伝えるという具体的な作業が億劫になってる。
「私は何者でどこから来たのか、誰があなたを守ってくれるのか。その答えが欲しかった。
そして何より、あなたが望んだものの在り方を見つけること」
探りあうことに共依存している。
「私とは『夢』そのものである。だから自分を記述できないのだ」とはっきりした文章にできる段階にない。
モヤモヤをその時は精一杯ぶつけた。
私の筆は遅々と進んでいく。
私の小説は「書こう」という気持ちを大事にする。
そうしたら「書く」という行為は、自分の心に根付くことだと思う。「自分の声」に出ているとは感じたが、「自分の心」にまで表れた文章は書けないわけではない。
作品完成まであと少しのやる気と努力。ゴールが見えている。彼も同じ立ち位置にいる。
そのとき彼は、書いてみよう、と決心するのだ。
それと少し遅れて「書けない」ことも理解する。
彼と私は認識を共有している。女と男は違うっていうけど、人間は人間なんだね。
書きたくても、書けないんだ。
これでいいんだな、と自分に教えてくれたのは彼だけなのかもしれない、彼は自分の心の声を聞いてくれた。私と同じ、胸のささやき。本当は筆がちっとも進んでないのに。
自分の心に蓋をして、相手にも隠してしまうことに不安を感じながらでも、彼はそれでも書くよ、と決めていた。
「書けない」の言葉は、彼の心を覆う錠剤のように甘く、心地よい。
だから彼は彼なりの方法で、書ける。私がゆっくり言葉をつづるように。
どうか彼に私の声を聞いてくれますように。
そして、彼は自分を変える。
「私は自分のこと、好きか嫌いか考えあぐねてる。嫌いなのかなあ?もし、そうだとしたら、私って何なんだろうって考えてしまう。
でも、私を解明してくれる人なんて何処にもいないって思ってた。
そういう漠然とした不安を誰にも言わずに我慢するっていうことが怖い、って。言えたらなって思ってた」
彼からは、今ここにいる自分を「好き」と言われても、「怖い」と言われても、それでも、彼は、受け入れてくれる気がした。
「書けない」の声が響く時、彼はそう決意することはなかったのだろうか。
でも今、そのことに気づかせてくれたのは彼だ。
「書けるよ」
好きです、と。
大好きです、と。
そう語る彼の声は暖かく、愛に満ちている。
そんな彼が
「書けない」と彼なりに考えてのこと、
彼の人生観を変えるために、自分の心を変えるために必要なものと言ったら、それは何かにぶつかって、彼の心が傷ついて、自分の存在自体が消え去ってしまうかもしれないという事だ。
彼から連絡が来た。「煮詰まった。このままでは本当に飛んでしまうかもしれない。黙ってあっちに行こうとしたがメモ帳がわりの下書きをうっかり cc で送信してしまった」
長文メールがびっしり。私が「書けない」に対して抱え込んでいる有象無象の複写。
ロングスカートの裾が乱れるのも気にせず、つまづき、転びつつ螺旋階段を駆けおりてアパートの前からタクシーに乗った。
ポンピドゥーのアパルトマン。最低ランクの部屋。
飛んできた私の前で彼はうずくまっていた。
「本当に、どうして……。私に何も言わずにさっさと去ってしまったり、私が生きなきゃいけないのは、私の方なんです。私を縛らないでください、ってずっと言っていませんでした、私だけを見てくれる人がいないって、分かっていたんです。だけど、どうしても、この状況は変えたくないんです」
「そうやって将来不安に座礁したまま救出を待っている。そしてSOS信号の甘い音色に作詞している。解ってるんだろう。君も自分を、筆を手放せばいい。楽になれる。そうしないのは、させないのは、君の君自身に対するエゴと、そして繋がってる俺の我儘だ。俺の不甲斐なさだ」
ちょっと、それって私が悪いって言う…。
「本当に……、どうしてこんな私に、自分を責めるようなことを言うのでしょう、って、今になって、自分で自分を殴って、本当に情けなくなって……、」
共依存に苦しめられている。
でも、私は次の扉を開く鍵をもっている。
それはもともと彼がくれたスペアキー。
そして、「書けない」と言った彼に伝えたいことがある、と、ここまでの想いが伝わったのか、彼は再び立ち上がった。
やおら机に向かい狂ったようになる。
「何が正しいのか、何が悪いのか。
もうわからないのになって、そういう自分が嫌になって、
もうダメなんじゃないかって思って。
でも、本当にダメなところに行っちゃったね、って。
ここで何か私に出来ることがあるからって、思いっきり、書いたよ。
もう書き通していいんだって。
私、やっぱりこのままでいいのかなって。」
そして、最後に、こう私に告げた。
「今まで貴方のおかげで書いてこれた、本当にありがとう。
そして…」
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