限界点

「きゃあああっ」

「危ないっ!」


 悲鳴をあげる私たちの目の前で、宙を舞った染料はセシリアのベールに……ぶちまけられなかった。とっさに動いたフィーアが容器をはじいたのだ。

 跳ね返った容器は来た方向に戻り、アイリスにぶつかった。

 頭から染料をかぶってドロドロになったアイリスはその場にへたりこむ。


「な……」


 王子も、私も、周りにいた生徒全員が、茫然とアイリスを見る。

 彼女は次の瞬間声をあげて泣き出した。


「ひどぉい、リリィ様! 染料をかけさせるなんて!」


 いやいやいや! そもそも染料をベールにかけようとしてたのそっちだよね?

 むしろ君が謝るほうだよね?

 でも、染料をかぶって泣く彼女は、見た目だけは完全な被害者だ。


「アイリス、大丈夫か?」


 しかも王子が気遣っちゃうし……。

 ねえ、その前に彼女が染料を持ち込んだことを気にして?

 フィーアが弾かなかったら、どうなったか考えて?


「オリヴァー様……」


 アイリスは泣きながら王子にすがる。彼は自分が汚れるのにも構わず、ハンカチで彼女の顔をふいた。

 女の子を気遣うのは悪いことじゃないですけど、時と場合を考えてもらえますか。


「リリアーナ嬢」


 アイリスをまとわりつかせたまま、王子が私を振り向いた。構図だけなら、すっかり私が悪者だ。だからといって引くわけにはいかない。


「私は謝りませんよ」

「しかし彼女は……」

「服が汚れたのはお気の毒と思いますが……染料を持ち込んだのは彼女、静止をきかずに近づいてきたのも彼女、躓いたのも彼女。全て自業自得です」

「他にやりようはあったんじゃないのか?」

「あの状況で他に何が? フィーアが動かなければ、染料まみれになっていたのは、何の関係もないセシリアです。私は私の友達を守ったまでのこと」


 私は、フィーアとセシリアを背にかばうように立つ。

 私に困惑顔を向ける王子の後ろで、アイリスの口元がわずかに持ち上がった。王子の同情を引けた時点で勝ち、とでも思ってるんだろうなあ。


「だが、彼女をこのままにしておくわけには」

「そうですね。アイリス、寮に戻って着替えて。片付けはこっちでやっておくから。汚れた服の購入費はハルバードに請求していいわ」

「それだけか……?」

「それ以上何があるんです。彼女は染料をかぶっただけ、怪我もないようです。むしろ、服の購入費を出して床掃除を引き受けるだけ、親切だと思っていただきたいですね」

「ううっ……」


 泣き顔のまま、アイリスはその場から走り去った。

 マジで床掃除を押し付けていったよ、あの子……。


「リリアーナ嬢、あんまりじゃないのか」


 それはあなたのほうだと思います、王子。


「前から思っていたが、君は彼女たちにきつくあたりすぎだ。確かに彼女たちは俺の幼馴染みだが、君が気にするようなことは……」

「そんな心配、1ミリもしてません」

「い……いちみり?」

「以前、担当者別のトラブル発生件数表をお渡ししましたよね? アイリスもゾフィーも、問題を起こす頻度が飛びぬけて多いんです。仕事全体を円滑に進めるために、問題児を重点的にケアする。それだけのことです」


 私は王子を見据えた。


「そ……そうかもしれないが、俺の意見を少しは聞いてくれてもいいだろう」


 私の意見は聞かないのに?


「君は俺の婚約者だ。言うことに従ってくれないか」


 そこで婚約者の肩書を持ち出すか。

 ぷつん、と私の中で何かがキレる音がした。

 すうっと手足の先が冷えていく。


「そういえば、私はあなたの婚約者でしたね」

「だったら……」

「それはただ、将来結婚することを約束しただけのこと。それ以上でも、以下でもありません」

「な……」

「婚約者だからって何でも言うことをきくと思ったら大間違いです」


 私は体のいい奴隷じゃねーからな!?



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