7 時期

「ですから、キリエ様、お休みください」

「え?」


 くるっと振り返ってミーヤがキリエに言う。


「あれからお休みになっていらっしゃらないのでしょう? 私を休ませるために昨夜はずっと起きていてくださいました。それからお仕事もたくさんおありだったでしょう、お休みになる時間があったとは思えません」


 きっぱりと言い切る。


「これから何日続くか分からないのですよ? ですから、お休みになれる間にどうぞお休みください」


 最後はキリエの言葉をそのまま使い、頼むというように深く頭を下げた。


「……分かりました、そうさせてもらいます。侍女部屋で横になりますから、何かあったら呼んでください」

「はい、分かりました」


 そうしてやっとキリエは休む時間を取れた。


 ミーヤはそれから、部屋中のありとあらゆるものに興味を持つシャンタルに、一つずつ根気強く「名前」を教え続けた。


「これは?」


 シャンタルは尋ねることを覚えた。


「これはですね、ランプ、です」

「ランプ?」

「はい」

「ランプ……」


 覚える速度も早くなり、反復の回数も少なくなってきた。


 途中、モナがミーヤの食事のワゴンを持ち、シャンタルの食器を下げに来た時、


「モナ?」


 と、いきなりシャンタルから声をかけられ、驚き、ひざまずいて頭を下げた。


 だが、最初の時と違い、二度目には余裕があったためか、


「はい、モナでございます、シャンタル……」


 10年で初めて声をかけられた、名前を覚えてもらった感激から目をうるませていた。


 ミーヤがそばについて幸せそうに微笑んでいるのを見ると、このことに関わりがあるのだろうと理解したように、ミーヤにもゆっくりと頭を下げ、モナ自身も幸せそうな顔で退室していった。


 シャンタルはミーヤが食事する様も興味深そうに横に座って見て、そのついでに一口ずつ、


「あまりたくさん食べてはキリエ様に叱られますし、本当にお腹が痛くなっても困りますからね、内緒ですよ」

「内緒?」

「ええ、内緒です」

「内緒……」

「そう、内緒です」


 と、笑いながらミーヤから分けてもらったりもした。


 本当に幸せな時間であった。


 奥宮ではモナが「シャンタルにお声をかけていただいた、名前を覚えていただいた」と興奮して話したことから、先行きを不安に思っていた侍女たちの間に安堵の息がもれた。その後部屋に出入りした者も同じように声をかけていただいた、と次々に言い出す。そのことでさらに明るい雰囲気が広がっていった。

 マユリアたちが姿を消していることも、このことに必要であるからだろうと誰かが言い出し、ミーヤをそばに置いていることも必要なこととして受け入れられ、この後ミーヤに対してもおおよそ好意的な態度がとられるようになった。


 セレンであるが、キリエに呼び出されて何があったか問われ、正直に全部話して反省の意を表したこと、その時にミーヤが話してはいなかったミーヤへのあらぬ非難についても告白をしたため、「きつく叱りおく」と注意だけで済まされた。何があったにしてもセレンの行動がシャンタルを今の状態へと導いたのもまた真実ではあるし。


 このようにして奥宮は落ち着く様子を見せた。

 シャンタルも数日の学びの日をて、みるみる子どもらしくなってきた。まだ本来の10歳の子どもよりははるかに幼いが、着実に成長されているのは明らかであった。


 だが、キリエとミーヤには新たな悩みができた。それは、マユリアやラーラ様、ルギたちにいつ何をどう報告するか、ということだ。


 シャンタルは順調に学び続けているようには見える。実際、単語だけではなく文章としても言葉が段々と形を取ってきた。まだあまり表情はないが、何かを覚えるたびにうれしそうにしているようにも見える。

 だが、今でも時折ふっと視線が遠くをさまような様子を見せる時、頭の中でマユリアとラーラ様を探しているようだ。しばらく虚空こくうを見つめた後、小さく「ラーラ様」「マユリア」とつぶやく時がある。


 もしも、2人と完全に切り離され、このまま成長を見せてくださるのなら、一刻も早く会わせて差し上げたい。そうは思うものの、もしも2人とまたつながって元の状態に戻ってしまうことがあれば、それを思うと踏み切れないのだ。


「安全をとるのならば、トーヤに助けを求められた後、ということになります。その後であれば、そのぐらいまでご自分の状況を理解され、自立された後ならば、もう元の状態に戻ることはないのではないか、と思います」


 キリエの意見にミーヤも頷く。


「ですが、それまでマユリアをあの状態に置くのは……」


 キリエはそこで言葉を飲み込む。

 ミーヤもマユリアがどこにいるのかを教えてはもらっていなかった。知ることでシャンタルに知れる危険もあるからだ。


「いいえ、もう少しご辛抱いただきます……マユリアもきっとそのようなことは望まれぬはずです」

「キリエ様……」


 ミーヤが痛ましそうにキリエを見る。何よりもこの状態を飛んで行ってでもお知らせしたいのはキリエ様だろうに、そう思うと胸が苦しい。


「もう少し、今少しの辛抱です……急かすようですがシャンタルにもう少しだけ大人になっていただいて、それからのことです……」

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