4. 向日葵

 それから数ヶ月があっという間に過ぎていった。刺客は定期的に送り込まれてきてはいたが、警戒を怠らなければ防ぎ切れる程度のものだった。それでも、警護の者たちや、時には自ら手を下さなければならない日常が続くのは、あまり好ましい状況とは言えなかった。


 書類の積み上げられた机を見下ろしながら、アレクシスは深く息を吐く。かつて負った頬の傷は縫うほどではなかったが、今も薄く痕が残っている。だが、その傷の深さよりも、あの緑の瞳に浮かんだ傷ついた光が、今なお彼の胸にその傷よりも遥かに深い痛みをもたらしていた。

 かつて、王となる前に凄まじいほどに襲いかかってきた刺客の一部を退けてくれていたのは、間違いなくリィンだ。だからこそ、私室を荒らした風は彼女の力でないことを、彼はほぼ確信していた。彼女がよく口に出していた精霊王なのか、はたまた別の精霊なのかはわからなかったが、彼女を連れ去ったその存在は、二度と彼女がここに来ることを許しはしないだろう。


「本当に愚かだな、私は」

「まだそんなこと言ってんのか?」

 呆れたような、それでもどこか面白がるような声に驚いて目を上げると、部屋の入り口に快活な笑みを浮かべた青年の姿が見えた。貴族としては珍しいほどに短く切られた黒髪、光を吸い込むはずの黒い瞳は鮮やかに楽しげに光っている。

「テオ……君がどうしてここに?」

「なんか最近きな臭いって聞いて、恩を売りに」

 ニッと笑った顔には言葉ほど屈託がない。


 青年の名は、テオドール・レヴァンティア。彼の国で宰相を勤めている公爵の次男にあたる。幼い頃は親しく遊んだ仲だが、つい半年前には剣を交えた相手でもあった。だが、この男の態度はむしろ戦の最中でもあまり変わらず、面白がっている様子さえあったのだ。幼い頃からの知り合いであり、遊び相手でもあった少し年下のこの青年は、ややこしい事情はありつつも、彼にとっては心を許せる稀有けうな存在だった。


「ほら、土産」

 そう言って執務机の上に放り投げられたのは、淡いの小さな楕円の菓子を詰めた瓶だった。

「ドラジェ? 懐かしいね」

 それは、彼らがまだ幼かった頃、彼の小さな妹の大好物だった。瓶の蓋を開け、一つを手に取ると、滑らかな手触りがする。溶かした砂糖で扁桃アーモンドを包み込んだもので、噛み砕くと香ばしさと甘みが口の中に広がる。

「里帰りの土産に欲しいと言われてな」

 その言葉に、目を見開く。

「彼女が、戻ってきているのか?」

「会いに来るか?」

「……遠慮しておくよ。彼女も私の顔など見たくもないだろう」

「もう気にしちゃいねえよ」

 突然割り込んだ低い声にびくりと肩を震わせて彼が振り向くと、まず伸びた黒髪が目に入った。無精髭も、その灰色の瞳に浮かぶ鋭い光も変わらない。かつて、愛しい人の呪いを解くために、共に彼の船に乗り込んだあの頃と。


 その後、彼らを裏切り、彼女を手に入れようとした。


「ジェイク……⁉︎ どうしてここに?」

「そいつが里帰りのついでに手を貸せと言うからな」

 ジェイクは肩を竦めながら以前と変わらない癖のある笑みを浮かべて歩み寄ってくると、何かを放って寄越した。くるくると巻かれたそれは、何かの書簡らしかった。開くと、びっしりと文字が書き込まれていたが、それを読み進むうちに、アレクシスは驚きに目を見張った。

「ターランティアが、背後に?」


 それは、テオの故郷である公国と常に衝突と和解を繰り返している国だった。元首の下、元老院の合議で運営される国だが、貴族たちが常に勢力争いを繰り返しているために、政情は落ち着かない。

 周辺国が比較的落ち着いているから、滅びるほど決定的に悪くなることはないが、たがが緩むたびに船乗りたちは海賊まがいに身をやつす。その煽りをくらうのは、同じ海洋国家として名を馳せているレヴァンティアだった。


「ああ、もともと公国は内海の奥にある。対してターランティアは外海に面していて、彼らの有利な点はそこにあった。だが、公国が外海にも港を持つアンティリカと手を組めば、脅威が増すと考えたらしい」

 ジェイクの言葉に、だがテオは不敵に笑う。

「元々ターランティアなんか俺たちからしたら目じゃないんだけどなぁ」

「その辺りは公爵がうまく御していたのだろうが……、元首が代替わりしたのだったか?」

「ああ、ちょっとやり手っぽかったけど、ありゃあダメだな」

「ダメ?」

「せいぜいが海賊の頭領ってとこだ」

「海賊のかしらの方が、まだ器用に立ち回るさ。おかで刺客を送りつけるなんて、下策にも程があるだろう」

 呆れたように言うジェイクにテオもうんうんと頷いている。それから彼の方に視線を向けてきた。

「だいたいお前もお前だ、アレク。何だって一々真っ向から相手してやってたんだよ? さっさと元凶を絶たなきゃ意味がないなんて、重々承知だったろうが」

「それは……」

「何をうじうじ悩んでるのかは知らないが、とりあえずお前は王だ。お前に何かあればこの国はまた崩れる。それが嫌で、お前はあの日々を耐え忍んだんだろう?」


 命を狙われ、周囲には信頼できるものとてほとんどいなかった闇のような日々。

 の存在だけが、彼を支えていたと言った言葉に嘘はないけれど、為政者の血筋を引く矜持と、民への思いが根幹にあったことは事実だった。


「それじゃあ行くぞ」

 この場にそぐわない、ひどく陽気な声に、けれどその真意を知る。

「……手伝ってくれると?」

「最初からそう言ってるだろう」

 快活に笑うその顔に迷いはない。まるで遊びにでも行くかのように、ごく楽しげに彼に向かって手を伸ばしてくる。ジェイクに目を向ければ、彼もまた口の端を上げて笑う。

「あんたの国が落ち着かないと、ユーリの故国も危ないってそいつが脅すもんだからな。不本意だが、手伝ってやるよ——一介の船乗り風情に手伝えることがあれば、だが」


 彼の言う通り、アンティリカは大国だ。以前公国を侵略したときは、公爵に気づかれずに行う必要があったから、軍をおおっぴらに動かすことはしなかった。だが、ターランティアが真実彼を害そうとしているのなら、遠慮は必要ない。

 彼の内心を悟ったように、テオが頷きながらもニヤリと笑う。

「正面からぶつかれば、無傷では済まない。金もかかるしな」

「……まさか」

「そのまさかだ。向こうが卑怯なやり方でくるなら、こちらも海賊式のやり方で返礼する」

「元首の館に忍び込むつもりかい?」

「幸い元首は代替わりしたばかりだ。まだまだ寿命は長い。締め上げておけばしばらくは大人しくしていてくれるだろ」

「——海賊はおかに上がって暗殺者の真似事をしたりしねえぞ」

「ああ、そりゃ悪かった。ってかあんたも海賊じゃないだろ? だが、城に忍び込むのはお手の物だよな」

 呆れたように言ったジェイクに、テオは悪びれた風もなく笑ってアレクシスに意味深な眼差しを向けてくる。何のことを言っているのかわからないほど彼も鈍くはなかったが、今さらそれについて悔いても仕方がない。

「お前は軍を動かす費用を捻出しなくて良くなるし、俺は久しぶりにお前と遊べて楽しい」


 お互い有益だろ、と笑いながら言うひたすら軽い口調にため息をつきながら、窓の外に視線を向けると、鮮やかな黄色が目に入った。背の高い、太陽に向かって力強く咲いているその花は、どこか彼女を思い出させた。淡い金のあの髪よりも、もっと濃く艶やかなその色が、ひどく懐かしかった。


「あいつみたいだな」


 ニヤニヤと笑う無精髭のその顔に、前回の自分の悪行も忘れて苛立ちのあまり思わず拳を握りしめる。だが、それを見て、もっと楽しげに笑う旧友の姿を見て、アレクシスはただもう一度、深いため息をついたのだった。

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