3. 蛇苺

 アレクシスの腕の中のリィンはただ穏やかに眠っているように見えた。白い頬は触れれば、その見た目通りにやわらかくすべらかだ。細い体を抱えたまま、ふと視線を向けると、赤い小さな実がいくつも生っているのが目に入った。縁にぎざぎざのある葉、五枚の花弁の小さな黄色い花と赤い実が、森を彩るように点在している。


 ごく長閑のどかな初夏の風景に、少し肩の力を抜く。疾風によって追い払われた刺客たちは、今のところ戻ってくる気配はない。周囲の衛兵たちも警備を固めているから、そう危険は高くないだろう。だが、一度だけならまだしも、警戒を解いた途端に襲ってきたということは、ずっとこちらの動向を探っていたということに他ならない。しかも、アレクシス本人だけではなく、リィンに射かけたということは、前回彼らを襲った連中と同じ——少なくとも、リィンの風の力を目にした者たちである可能性が高い。

 しばらく見るともなしに赤い実の生っている茂みに目を向けたまま、考え込んでいると、不意に声が聞こえた。


蛇苺へびいちごだね」


 腕の中に目を向ければ、鮮やかな緑の瞳がじっと赤い実の方を見つめている。

「たくさんっているからこの間、食べてみたけど、あんまり美味しくなかった。なんかもさもさしてるし、甘くないし」

「……なら、君のために甘い苺を用意しよう」

 不満げに口を尖らせた顔は、先程傷を受けた様子など微塵も感じさせない。その体を強く抱きしめ、安堵の息を吐きながら、やわらかい黄金の髪を撫でて頭に顔を寄せた。リィンは不思議そうに首を傾げる。

「アレクシス、どうしたの?」

「覚えていないのかい? 君は私をかばって、矢を受けたんだ。その傷は見えない誰かが癒してくれたようだが、君はしばらく意識を失っていた」

 少し体を離して視線を向けると、リィンはどこかバツが悪そうに顔を顰めた。そわそわと指先を組んだり離したりしていたが、やがて、こちらを見上げる。

「その人、何か、言ってた?」

「人の姿をしている時に傷を負えば、そのまま死ぬことさえある。気をつけろと……心配しているようだったよ」


 じっと見つめると、ふいと視線を逸らす。聞かなければならないことはたくさんあるはずなのに、上手くまとまらなかった。戸惑う心の理由に気づいて、アレクシスはぐっと拳を握りしめる。

「アレクシス?」

「ああ、何でもないよ」

 怪訝そうな表情のリィンに微笑んで見せ、ひとまずはそのままその体を抱き上げて馬に乗せて、自らもその後ろに跨った。

「少し休んでいくといい。また連中が襲ってこないとも限らないから、まずは城へ」

「でも……」

「苺はないけれど、何か甘いものを用意させるから、少しだけ寄っていってくれないか?」

 どこか切なく目を眇めてそう言った彼に、リィンはほんの少し頬を染めて仕方ないな、と言いながら頷いた。


 城へ戻ると早速側近たちが駆け寄ってくる。彼らは、リィンの姿を見て目を見張り、物問いたげに彼を見上げたが、アレクシスはただ静かに首を振る。そうして、お茶の用意をするように、と告げると一瞬怪訝そうな表情になったが、それでも一礼して去っていった。

 先に下りて、リィンを抱き下ろそうとしたが、彼女はひょいと軽やかに馬から飛び下りた。

「馬って初めて乗ったけど、面白いね」

 鼻先に手を伸ばしながら興味深げにそう言う。

「森には野生馬はいないのかい?」

「いるけど、乗ろうと思ったことがないよ」

「それはそうかもしれないね」

 リィンは精霊の姿をしているときは、背中に羽根がある。自ら飛ぶことができるのに、わざわざ馬に乗る必要はないだろう。考えてみればあまりに当然の答えにアレクシスは自分でも笑いながら、城の中の彼の私室へと移動した。


 普段リィンが出入りするのはほとんど彼が執務室にいるときだから、私室に入るのはこれが初めてだった。長椅子とテーブル、大きな窓がいくつかある他は、壁面は本棚で埋め尽くされている。

「本が好きなの?」

「数少ない私の道楽だね。あまりゆっくり読む時間も取れないけれど」

「そんなに忙しいの?」

「刺客を差し向けられる程度にはね」

 冗談のつもりで言ったのだが、リィンは心底嫌そうに顔を顰めた。それから、視線を床に落として、ぽつりと呟く。

「……落ち着いたと、思ってたのに」

「私もだよ」

 常に命の危険を感じていた闇の中のような日々。それでもなんとか内乱を治め、味方を作り、時には武力行使さえも惜しまなかった。誰よりも愛した彼女には、到底話せないような、血生臭いことさえもためらわなかった。


 彼の手はあまりに血で汚れている。だからこそ、でしか彼女を手に入れられないと思ったのかもしれない。


「アレクシス……?」

 気遣うような眼差しが、逆に心に突き刺さる。なんとか笑ってみせたとき、召使いたちがお茶と菓子を運んできた。

「本日は野苺がたくさん手に入ったので」

 言いながら、真っ赤なジャムの敷き詰められたタルトが供される。それから薄く重ねた生地を揚げて砂糖をまぶした菓子に、果物がいくつか。


 急に彩りが豊かになり、香ばしい匂いが漂ってきたテーブルの上に、リィンが目を輝かせる。給仕を申し出た彼女たちを下がらせ、カップに香草茶を注ぐと、リィンに差し出す。

「熱いから気をつけるんだよ」

「あ、ありがとう」

 タルトを切り分けて、焼き菓子と果物も添えて皿にのせてリィンの前におくと、さらにその表情が緩んだ。テーブルに肘をついて見つめていると、怪訝そうに見返される。

「何?」

「いや、どうぞ召し上がれ」

 そう促すと、タルトを持ち上げてかぶりつく。行儀のいい食べ方ではなかったが、不思議と粗野な感じはせず、そんな仕草でさえ、むしろ自然で優雅に美しい。さらにはその顔が幸せそうに微笑んだのだからなおさらに。

「美味しいね」

「そうかい?」

「うん、甘くて美味しい。これは蛇苺とは違うんだよね?」

「そうだね。蛇苺も野苺の仲間だとは思うけれど、これは確か花が白くて甘みがあるものじゃないかな」

「へえ。いろんな種類があるんだね」

 タルトの一片をぺろりと平らげて、さらに焼き菓子を口に入れて相好を崩している。そんな表情を見れば、アレクシスも微笑まずにはいられなかった。ふと、疑問を思い出す。


「そういえば、君の本来の姿はあの小さな羽根のある姿なのかい?」

「本来の、というか生まれた時の姿はそうだよ。でもこの姿も別に化けてるわけでもない」

「……つまり?」

 首をかしげた彼に、リィンは少し考え込む様子になる。

「普通の人間には、私たちの姿は見えない。でも私はアレクシスに会いたいと思った。そう強く願ったらこの姿になった。それだけだよ」

「それだけって……以前見た姿は少年だっただろう?」

「うん、あのときは王に変えてもらったからね。今回は自分で変わったから、たぶんこの姿がアレクシスに見せたい姿なんじゃないかな」


 鮮やかな緑の瞳は変わらない。けれど、豪奢に身を包むような黄金の髪と、すんなりと細い手足にふっくらとした頬や艶やかに赤い唇など、全体の印象は大きく異なる。絶世の美少女の今の姿が、彼のために変わったものだというのなら。


 ——それは、やはり愛の告白にしか聞こえないのだが。


 胸の奥にじわりと熱が宿ると同時に、暗い不安がよぎる。先程襲われた時に感じた身を焼くような焦燥と、目の前が暗くなるような絶望感と。


 楽しげに菓子を口に運ぶその姿を見て、彼女を愛しいと自覚すればこそ。


「リィン」

「何?」

「それを食べ終わったら、森に帰ってもう二度とここへは来てはいけないよ」

 言葉にするだけで、身を切るような痛みに見て見ぬふりをする。案の定、リィンは驚いたように目を見開いて、ついで、怒りをその顔に滲ませる。

「何で突然?」

「刺客に二度も襲われた。しかも、彼らは君にまで危害を加えた。君を巻き込みたくないんだ」

「私は平気だ」

「平気なわけがないだろう。これは私の不徳が招いたことだ。人間のくだらない争いに君が巻き込まれる必要はない」

「何だよそれ……! は、花嫁にって言ってたじゃないか!」


 言ってからしまったというように顔を赤らめたリィンに、思わず驚いて目を丸くする。好意を持ってくれていることは何となく感じていたけれど、まさか真に受けてくれているとは。


 緩む頬を自覚しながらも、彼は、ゆっくりと首を横に振る。

「王妃になどなれば、ますます狙われることは明らかだ。君にそんな役目を負わせるわけないはいかないよ」

「あの肖像画の人たちならいいの?」

「求婚者の姫君たちかい? そうだね、彼らは私に嫁ぐことで得るものがある。その代償を払う覚悟はあるだろう」

「代償って……何だよそれ!」

 その鮮やかな緑の瞳に怒りを浮かべ、わなわなと拳を握って体を振るわせるその姿に、ますます湧き上がる感情を、穏やかな笑みに変えてねじ伏せる。

「王族の婚姻など、そんなものだよ」

「そんなはずない! アレクシスはだって、ジュリアーナのために……」

「彼女は特別だ」


 言い切って、動揺が表に現れないように、一度目を閉じ、それからもう一度開いてまっすぐに宝玉のようなその瞳を見つめる。


「彼女だけが特別だ」


 どうか、この想いがこの純粋な存在を、これ以上傷つけることのないように。


 内心の願いを気取られぬように、立ち上がってその頬に手を伸ばす。間近に顔を近づけて、彼女の真意を試すように。

「それとも、君はその風の力を示してこの国を守ってくれるかい? 以前にも言ったね。奇跡の力を持つ風の姫として、国内外に喧伝して、刺客たちをよせつけぬように、見せ物になってくれるかい?」

 見せ物、というその言葉を聞いた瞬間に、リィンの瞳に浮かぶ光がさらに苛烈なものに変わった。もう一押しだ、と痛む心臓を無視して言葉を続ける。

「このまま君を寝台に連れ込んで、精霊を手にした幸運な王として、私が民に崇められるのを君が受け入れてくれるなら、それでも私は構わないけれど」


 その瞬間、鋭い風が吹いて頬を切り裂いた。決して浅くはない傷が開いて、血が流れ出す。


 けれど、その痛みよりも、とっさに風の刃を放ってしまったリィンの方が、遥かに傷ついた顔をしていた。

「あ……私は……」

「構わないよ、傷の一つや二つ。それで君が納得してくれるのなら」


 呆然としたままこちらを見上げる顎を捉えて顔を近づけた瞬間、凄まじい風が巻き起こって部屋中を荒らしまわった。棚という棚から本が飛び出し、テーブルの上の食器も粉々になる。


 後には、ただ荒れ果てた部屋だけがあった。リィンの姿は跡形もなく消えていた。

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