2. 茉莉花

 側近に事情を説明し、周囲を探らせたが、薔薇ばらの茂みに突き刺さっていた矢さえもすべて回収され、痕跡はわずかな血の染みだけだったという。いくら平和に慣れ、警備が以前よりは薄いと言っても、王宮の庭に兵に一切気づかれず侵入した上に、撤退までも気取らせないその手際を見れば、素人ではありえない。

 よほどに修練を積んだ精兵か、暗殺を生業とする者たちか、いずれにしても差し向けた相手の本気度が知れようというものだ。何人いたのもわからないが、もしリィンが彼を救わなければ、あの場で命を落としていたかもしれない。


「——私が、本当に玉座を望んで、こんな場所にいるとでも思っているのかな」

宰相わたしとしては、聞き捨てならないお言葉ですね」


 笑みを含んだ低い声に目を向ければ、この国の宰相でもある隣国の公爵が穏やかに微笑みながらこちらを見つめていた。確か、まもなく五十に届こうかという年齢だったはずだが、その体躯はしっかりと引き締まり、たるんだところなど一分もない。

 後ろで軽く結えた黒い髪にはちらほらと白いものが混じり始めているが、整えられた顎髭あごひげのある顔にしわは少なく、いまだ十分に精悍せいかんな印象だ。


 じっと見つめ返した彼に、宰相は軽く肩をすくめる。

「あなたがどうしてもとおっしゃるので、私はここにおりますのに、肝心のあなたが玉座を望まないなどと」

「あなたが一番よくご存知かと思っていましたが?」

「はて、何のことでしょう?」

 にこやかに首を傾げる様子は、穏やかな好人物に見える。だが、少しでも彼を知る人間は、それがただの擬態にすぎないことに気づくだろう。自国の利益のためなら、どんな冷徹な策でさえもろうすることができる——ときに実の娘を利用することさえも——そんな男だ。


 さらには彼の持つもう一つの才は、諜報ちょうほうけていることだ。自国やこの国のことは元より、利害関係のある他国についても誰よりも通じている。


「アドリアーノ殿、私の命を狙う者に、お心当たりは?」

 直裁にそう尋ねたアレクシスに、アドリアーノは一瞬本気で虚を突かれたように目を丸くした。常には冷静な宰相のそんな表情に、彼も思わず相合を崩したが、すぐに表情を引き締める。

「先ほど、庭園で複数の刺客に襲われました。手際からして、おそらく玄人であろうと」

「お怪我は?」

 顔色を変えた遠縁でもあるその人に、アレクシスは肩をすくめて笑って見せる。

「見ての通り、かすり傷ひとつありませんよ」

「……ずいぶんな幸運をお持ちのようだ」

「一番大切なものを失った代わりに、幸運の女神が見守ってくれているのかもしれませんね」


 微かに皮肉混じりの彼のそんな言葉に、アドリアーノはなんとも言えない微妙な表情になる。だが、今はそんなことについて語っている場合ではない。

「賊は? どのように襲われたのです?」

 相手もまた、すぐに真剣な表情になってそう問い返してきた。彼は覚えている限りのことを話したが、矢のことに言及すると、宰相の顔色が目に見えて変わった。

「黒い矢羽……間違いありませんか?」

「ええ」

 頷いた彼に、アドリアーノは平静ではあるものの、どこか難しい表情で何かを考え込んでいる。やがて、ゆっくりと顔を上げ、彼を見つめた。

「おそらくは、灰色の鷹と呼ばれる者たちでしょう」

「灰色? 黒でなく?」

「彼らは特殊な黒い矢羽を使いますが、装束しょうぞくは目立たぬ灰色を纏っていると聞きます。それが彼らの呼び名の由来かと。姿に見覚えは?」


 宰相の問いに、彼はただ首を横に振る。突然のことに、かろうじて記憶に残っているのは男のように見えたことと、弓矢を持っていたことだけだった。


「情けないことですが、動揺してしまったようです」

「当然でしょう。しばらくは、王宮の中で過ごされますよう。また、王宮の中でも御用心ください。私も手勢を配置しておきますが」

「ありがとうございます。ですが、ここは私の国。過分なお心遣いは不要ですよ」

 アドリアーノには守るべき自国がある。最近では同じ海洋国家であるターランティアとの関係が悪化していることも聞いていた。

「あなたをここにお引き止めしている私が言うべきことではないかもしれませんが」

「我が国も大国の庇護という恩恵を受けているのですから、利害の一致ですよ。それとも……私をお疑いですか?」

 人の悪い笑みを浮かべてそう言ったアドリアーノに、彼もまた笑みを返す。


 この宰相が本気になれば、いつでも彼の首など落とせたはず。以前、公国に侵攻すると脅した時でさえ、アレクシスは半ばその覚悟を負っていた。常に冷徹な判断を下す為政者としての姿と、誰よりも家族と自国を愛するその真意を知っていたからこそ。

「……いいえ」

「では、もう二度とご自分の首を賭けての博打など、なされませんよう」

 やんちゃな親しい甥でも見るかのように和らいだ彼の表情を見て、アレクシスはただ、静かに頭を下げるよりほかなかった。



 それから十日ほどが過ぎたが、特に怪しい動きはなく、山積する政務をただひたすらにこなす日々が続いた。あれ以来、風のおとないもなく、どことなく心に穴が空いたように感じてしまう。

 久しぶりに庭園へと歩みを進めると、微かに甘い匂いが漂ってきた。薔薇のそれとも異なる、もっと爽やかな、しっかりと甘い香りに引き寄せられるように歩いていくと、小さな泉が見えた。森の端のようなその場所には、低木が取り囲むように生えている。

 その香りは泉の近くの低木から漂ってきていた。小さな五枚の細長い花弁の花が寄り添うようにいくつも咲いている。その花が舞い散るように落ちて、泉を白く埋め尽くしていた。その水を手のひらですくうと花の香りが移って甘い匂いが伝わる。興味本位で口に含んだが、ただの水だった。


「甘いと思った?」


 からかうような声に目を向けると、明るい金の髪が見えた。明るい日の下で見ればなおさらにきらきらと輝いて、太陽そのもののように見える。先日怒りを浮かべていた瞳は、今は楽しげに笑っていた。

「ずいぶん機嫌がいいね?」

「今日はいい風が吹いているからね。それにこの花の香り、すごく好きだ」

 言いながら、低木に近づいて、顔を寄せる。

「これも、西方の国で育つ木だと聞いたよ。西の果ての国では茶にこの花の香りを移して楽しむんだって」

「それは、確かによさそうだね」

 味を変えないこの花は、きっと馥郁とした香りをもたらしてくれるだろう。

「今度取り寄せておくから、お茶に招いてもいいかな?」

「本当⁉︎」

 ぱあっと輝いた笑顔に、自然と彼の頬も緩む。

「何なら甘いものも用意しよう。君は食事もできるんだっけ?」

「別に必要じゃないけど、人の姿をしている時は、人と同じように感じることができるよ」

「そうか」

 では、と言いかけた時、不意に黒い影がよぎった。

「アレクシス!」

 叫んだ声に反応する暇もなく、リィンが彼の前に立ちはだかった。彼女が風を放つより早く、黒い矢が白く細い肩に突き刺さる。

「リィン!」

 ぐらりとかしいだその体を咄嗟に引き寄せて低木の裏へと身を隠した。呆然とする間もなく、いくつもの矢が降り注ぐ。避けられない、と覚悟を決めてせめてリィンだけでも守ろうとその身を庇うように抱きしめた。


 だが、不意にごう、と以前リィンが起こしたのとは比較にならないほどの強い風が巻き起こる。続いて、男たちの低い呻き声が届いた。一瞬呆気にとられ、すぐに我に返って懐に潜めておいた小さな笛を取り出して、思い切り吹く。ピィィィッと耳をつんざくような音と共に、時をおかずして馬の駆けてくる蹄の音が響いた。


「陛下!」

 低木から顔を覗かせると、既に襲撃者の姿は影も形もなかった。ただ、残っているのはリィンの肩に突き刺さっている矢だけ。

「まだ近くにいるはずだ、追え!」

「陛下は……」

「すぐに戻る、まずは追ってくれ! ああ、だが馬を一頭おいていってくれると助かる」

「承知しました」

 駆け去った部下たちを見送って、腕の中に倒れ込んでいるリィンに改めて目を向ける。突き刺さった矢が痛々しいが、まだ血は流れていなかった。

「リィン?」

 声をかけたが、気を失っているのか、反応がない。


『やれやれ、世話の焼ける』


 どこからともなく何かを面白がるような声が聞こえて、ふわりと風が吹いた。リィンの肩に刺さっていた矢が、まるで砂のようにさらさらと崩れ、風に乗って跡形もなく消えていく。目を見張っている彼の耳に、もう一度やわらかな声が届いた。


『人間を庇うなど、あれほど人間が嫌いだと言っていたくせに』

 その声と同時に吹いた風とともに、矢が突き刺さっていた痕も綺麗に消えていった。

「あなたは……?」

 見えない相手に向かって尋ねる。返事は期待していなかったが、すぐに冷ややかな声が返ってきた。

『そなたは私の愛し子を傷つけた。本来なら手を出すつもりなどなかったが、まあその子の純情に免じて見逃してやろう』


 愛し子、が誰のことかすぐにわかってしまった。


「あなたは、ユーリの……」

『精霊といえど、人の姿をしている時に傷を受ければ、人と同じように傷つく。下手をすればそのまま死んでしまうものもいるということを、その馬鹿者に伝えておけ』

「待ってください。リィンは、大丈夫なのですか⁈」

『傷は癒した。初めての手傷に驚いて気を失っているだけだ。程なく目を覚ますだろう。それまではどこか静かなところに寝かせておけ』


 それだけ言って、何かの気配は消え、二度と声は返らなかった。

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