風への贈り物
橘 紀里
1. 芍薬の花
朝から政務に追われ、ようやくひと段落して外に出る。以前は荒れ果てていた城の庭園は、今は丁寧に手入れがされていて、夏が近づくこの時期はあちこちで薔薇の花が咲き誇っていた。すでに夕刻、香りはほとんど風に流されてしまったようだが、まだ花に顔を近づければ微かに野生的な甘い香りが鼻腔をくすぐる。
アレクシスはその香りを胸いっぱいに吸い込んで、ふと視線を向けた先に、大輪の花がいくつも咲いているのが目に入った。薔薇に似ているが、もっとふんわりと幾重にも花弁がみっしりと重なって、暖かそうな印象を受ける。おおらかに美しいその花に、なぜかあの人の印象が重なって、一つ首を振る。
あの男に攫われるようにして、彼女が彼の元を去ってからすでに一年。彼の国の宰相でもある彼女の父は話そうとはしなかったが、家族の計らいで船上での結婚式を挙げたと人づてに聞いている。さぞかし美しかっただろうその花嫁姿が白い大輪の花と重なって脳裏に浮かんだ。
——我ながら未練がましいな。
そう独り
黒い矢羽に目を見張っていると、振り返る間もなく、かつて聞き慣れた弦を弾く音が響く。避けられない、と覚悟して腰に帯びていた剣を抜こうとしたその時、強い風がいくつもの矢を吹き飛ばした。
「アレクシス、こっちへ!」
腕を引かれて迷路のように薔薇の木が林立する庭園の奥へと駆け込む。自分の腕を引くその鮮やかな黄金の髪に目を奪われていると、さらに弓弦を引く音が響いた。
「しつこい!」
ごう、と強い風が今度は矢を落とすだけでなく、鋭い刃となって射手へと襲いかかった。複数の男たちのものと思われる低い呻き声が届く。さらにいくつもの風の刃が駆け抜けていったかと思うと、やがて静かになった。
命を狙われた、という緊張感と人ならざる力を目にしたその興奮で早鐘を打つ心臓に鎮まれと内心で言い聞かせながら、呼吸を整えて、改めて自分の腕を掴んでいるその人を見つめる。
「いつも、こうして見守ってくれているのかい?」
「た、たまたまだよッ!」
慌てて不機嫌そうにそう叫んだその顔に、思わず苦笑が漏れる。改めて見れば、日の光を受けてきらきらと輝く黄金の髪も、深い森の中で見る大樹の葉のような鮮やかな緑の瞳も、どちらも目を奪われるほどに美しい。
かつては美しいものの、比較的普通の少年の姿だったのに、今はどこからどう見ても絶世の美少女だ——そんな場合ではないと分かっていてさえ、出会った誰の目をも惹きつけずにおかないほどの。白い長衣から覗く首は折れそうなほどに細く、手も脚もすんなりと白く細い。頬は滑らかで、目元を朱に染めた様子は怒りに近いその表情でさえ可憐に見える。
「ありがとう、リィン」
屈託なく笑ってそう告げれば、さらにその顔が赤くなる。まるで人間のような反応に、思わず悪戯心が湧いて、その顎をすくい上げた。
「そろそろ私の花嫁になる決心はついたかい?」
「な……何言ってるんだ、この馬鹿! 私が花嫁になんかなれるわけがないじゃないか!」
「そうかな? ユーリの祖先は人間の花嫁を
「からかうのもいい加減にしろ!」
彼女の名を出した途端、リィンの表情が不意に
「待って」
「……何?」
「君に見せたいものがあるんだ、もう少しだけ付き合ってくれないか?」
真摯な顔でそう言った彼に、リィンは少しだけ迷う様子を見せたが、やがて不承不承と言った様子で頷いた。
その様子にどうしてか弾む胸を抱えて、彼はリィンの肩を抱くと、元来た道をゆっくりと進む。最初に射かけられたすぐ先に、小さな血痕が残っていたが、もう怪しい気配はないようだった。
「一体……」
「心当たりはないの?」
「どちらかといえば、ありすぎてね」
軽く笑ってそう言ったが、実のところ、直近で思い当たる節はなかった。数年前なら、まだいくつもの障害が残っていたが、よほど信用できる相手以外は殲滅するか取り込んだ今となっては、彼に面と向かって逆らおうとする者にも、暗殺してその地位を狙おうとする者にも心当たりはない。
少し考え込んだ彼を、リィンが呆れたように腕を組んで睨めつける。
「どうせアレクシスのことだから、うっかり誰かの恨みを買ってるんじゃないの?」
「手厳しいね。だがまあ、ないとは言い切れないね」
自分ではうまく立ち回っているつもりでも、あの日々はそれほどに苛酷だったし、最後の数年は焦っていた自覚もあった。だからこそ、何かが綻びてこんなことが起きているのだろう。
「でもまあ、君がいてくれて助かったよ」
「別に、アレクシスのためじゃない」
口を尖らせて言うその様子はまるで幼い子供のようだったが、それを指摘するほど彼も無粋ではない。
「そうなのかい?」
ただ笑って頷くと、彼女はすぐに表情を明るくして前を向く。
「すごく、あの花が綺麗だったから」
白く細い指先が示したのは、先ほど彼が見惚れていた大きな白い八重咲きの花だった。
「薔薇に似ているけれど、少し違うね」
「確か、東の果ての国の花だよ」
「東の果て?」
「そう。王が、以前見せてくれたことがある」
もっと緑の濃い、山の中に咲く花なのだという。
「周りの緑が濃いから、そこにいくつも浮かび上がるように咲いている様子がとても綺麗なんだ。この国でこうして見られるとは思わなかった」
先ほどまでの不機嫌な様子が嘘のように、頬を上気させて満面の笑顔で言う。風の精霊だと言っていたが、森の中で生まれた精霊だから、やはり花や樹木に愛着が強いのかもしれない。
「そんなに喜んでもらえるなんて、あとで庭師を褒めておかないとね」
言いながら、懐から短剣を取り出して、一輪を摘み取ると少女に差し出す。
「いいの?」
「君のそんな笑顔が見られるのなら、いくらでも」
「……ありがとう!」
ぱあっとさらに輝いた顔があまりに眩しくて、彼はほとんど無意識にその頬を引き寄せて、口づけていた。ほんのわずか、触れるだけの。
その後、巻き起こされた旋風で前髪が何本か風に舞ったのは、予測可能な出来事ではあったけれど。
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