リフィという少女



 「落ち着いたか?」




 「……うん」




 月明かりの様な金色の長い髪を下ろした碧眼の少女はホットミルクを飲み終え軽い放心状態となっていた。




 この少女は一体誰だろう、名前を呼ばれた気がするが知り合いなのだろうか? 歳は14か15くらい。一度出会った人は大体覚えているが、この少女のことはまったく覚えがない。ただ……、なんだろうこの懐かしい感覚は。昔から知っているようなそんな感覚。




 「なぁ、俺の名前呼んでたと思うんだが、どこかであったか? 申し訳ないが覚えが無いんだ」




 少女は首を横に振る。話したかった、とも言っていたし勇者時代の俺のことを知っていたということだろう。




 「ここの村の子か? 名前は?」


 また首を横に振る。この村の出身というわけではないということか。




 「……リフィ」




 「リフィ?」




 「私の名前」




 「そうか、知っていると思うが一応俺も名乗っとくか。俺はクラロス、クラロス・エフ・パシオンだ。リフィはどうして俺を訪ねてきたんだ?」




 「会いたかったの。勇者クラロスに」




 やはりこの子は勇者だった俺を訪ねてきたということか。




 「あー、悪いがな、俺はもう勇者じゃなくなったんだ。だから依頼があったとしても応えることはできない。まぁ栄皇教会に話ぐらいは通しても―――」




 「勇者……やめたの?」


 リフィの表情が曇る。期待を裏切った形になってしまい申し訳ないが、これは仕方のないことなんだと自分に言い訳をする。




 「ああ……、体を壊してしまって、な。まぁ俺のことはいいんだ。リフィ、君は俺に会ってどうするつもりでここに来たんだ?」




 しかし、不思議な少女だ。容姿は貴族階級のお嬢様といっても差支えない。だが服飾は教会の物がちらほら見受けられる。深紅の聖骸布がその証だ。つまり教会の関係者かもしれない。




 「お話し、したい」




 「お話し…? それだけの為にか?」




 「うん……」




 さて困った、リフィの目は嘘をついていない。ただ話をするためだけに引退した勇者の家に押し掛けるなんて今まで聞いたことが無い。




 そもそも何を話せばいいのだ。面と向かってお話ししたいと言われて思いつく話題なんて到底浮かばない。ならいっそのこと小粋なジョークでこの場を誤魔化すか? ……いや、それだけはやめておこう。




 バカなことを考えていないで本筋に戻そう。まずはリフィの素性についてだ。村の子でないのなら送り帰さなければならない。保護者がいるのなら心配をかけてしまうだろう。




 「そもそもどこから来たんだ? 誰か保護者と来たのか?」




 また首を横に振り「わからない」と。




 これは本格的に困った。身元がわからないとなってしまえば村の憲兵に引渡すしか手段は残っていない。




 「―――おじゃまします。お客さんがいらしてたんですね」




 軽いノックの後、玄関からソフィアが姿をみせた。




 「ああソフィアか、いらっしゃい。……ダメもとで聞いてみるがこの子に心当たりはあるか?」




 「いいえ私には……。もしかして迷子ですか?」




 「迷子というかなんというか……。俺を訪ねてきたみたいなんだが、どこから来たのかわからないらしくてな」




 するとリフィはソフィアをまじまじと見つめ、ハっとした表情を見せる。




 「ソフィア! ソフィアなのね!」




 リフィは椅子から勢いよく立ってソフィアに抱き付いた。




 「えっ、ええ!?」




 困惑半分、照れ半分といったところか。知らない少女から一方的に抱きしめられると誰だって困惑するよな。俺だってしたし。






×××××






 ひとまずはリフィという少女の素性については保留にして、憲兵に引き渡すかどうかを話し合った。そのことをリフィに話すと強く拒否された。




 「それなら私の家でしばらく預かりましょうか? リフィちゃんが良ければですけど」




 「私はクラロスの傍にいたい」




 どうしましょう、というソフィアの視線。




 俺が預かる―――、といっても男の一人暮らし、しかもソフィアが少し片づけてくれたとはいえとても客人を預かるような環境ではない。




 「リフィ、お前はソフィアについていけ。俺の家は汚いしソフィアの家のほうがよっぽど快適だと思うぞ?」




 「それでも、それでも私はクラロスの傍にいたい。ダメ……?」




 今度は俺がソフィアに助けを求める視線を送る。




 「どうしてもクラロスくんといたいの?」




 ソフィアは体勢をを少し下げ、リフィと視線を合わせる。リフィの眼差しは真剣そのものだった。そんなリフィの頭を撫でて「わかった」と笑顔で返す。




 「クラロスくん、私からもお願いします。リフィちゃんを預かってもらえませんか?」




 「って言われてもな……」




 「だったら私、片付けする」




 リフィはそう言うと空き瓶を拾い、乱雑に放られた毛布を畳みはじめた。




 「お、おい!」




 「ふふっ! そうですね、私たちが片付けてしまえば解決ですね」




 ソフィアは笑みをこぼしてリフィの片付けを手伝う。いや、片付けたからと言ってクラロスの懸念が無くなるわけではない。見知らぬ少女を一人で預かるというのは倫理的に大丈夫なのだろうか。何かするなどというバカげた下心などもちろん無いが、周囲の目というのが気になる。




 気にしても仕方がないことか。リフィという少女は俺を頼ってここまで来たんだ。素性がはっきりとするまで面倒を見てやらねばならない。




 「わかったわかった。ちっと埃っぽいが一部屋空いてるから掃除するならそこからだ。ソフィア、バケツに水を汲んできてもらえないか?」




 リフィとソフィアは顔を見合わせて笑顔で頷き合う。




 「わかりました! すぐ持ってきますね!」




 「ありがとうクラロス」




 「いいから部屋に行くぞ」




 少し照れくさかったので早足でリフィの部屋となる場所に移動する。




 クラロスの家は木造の平屋。玄関すぐにリビングルームとキッチンがあり、その奥へと続く扉の先に二部屋とシャワールームなどがある。一つは名ばかりの寝室でベッドと机が殺風景に置いてある。もう一つの部屋は物置部屋になっていた。




 「とりあえず物をどかすか。それから掃除して、俺のベッドを運ぼう」




 「クラロスはベッドで寝ないの?」




 「なんだかんだでいつもリビングのソファで寝てるからな。女の子をソファで寝かせるわけにもいかないだろ」




 「一緒に寝れば解決」




 「いや、それはダメだろ」




 「ダメなの?」




 「ダメだ。ったく……、俺は先にマットを干してくるから、適当な荷物を隣の部屋に運んでおいてくれ」




 リフィは異性に対する距離感をてんで分かっていない。純粋な心持っているのは誇るべきことだが、大人になってからのことを考えれば早いうちに距離感を覚えさせておいたほうがいいだろう。




 寝室に入り、ベッドの布団とマットを持ち上げる。あまり使っていなかったせいでかなり埃が溜まっている。外へ運び込んで物干しにかけてはたく。すると花粉のように埃が布団から勢いよく吐き出される。




 「……ある程度は定期的に干すことにするか」




 ふと空を見上げる。どこまでも高い澄み渡った青空。




 勇者として各地へ飛び回っていたころは野宿が基本だった。転送魔術を使って任務地に送り出されることもあったが、緊急時だけの対応だったのでそれ以外は馬車や船を乗り継いで戦地に向かう。今こうして家を構えて生活するというのは、勇者をしていた頃には想像できなかったことだ。これはこれで野宿よりも大変ではあるが……。




 生活力はそれなりにあると思っていたが、食事や掃除に対する気力が足りていない。昔はそれらに対して楽しめていたと思っていた。今は、最低限生きていければいいとしか思わなくなってしまった。




 灰色の世界。俺の目に映る澄んだ青空はどこまでも眩しかった。






×××××






 「おわったぁーっ!」




 掃除をしてベッドを運んだだけ―――、のはずだったが、リフィがバケツをひっくり返したり、ソフィアが足を滑らせてびしょ濡れになったりと。ハプニングが連続したせいで思っていたより時間と労力がかかった。




 「少し疲れちゃいましたね。お茶とお菓子用意しますね」




 替えの服に着替えたソフィアは妙に色っぽかった。俺の服のサイズが大きいせいで肩の素肌を晒してしまっている。少しだけ目のやり場に困る。




 「邪念のある視線を感じる……」


 リフィの完璧なジト目。




 「よーしリフィ、その目をやめて今すぐリビングへ行け」




 「むむむ―――」




 不満顔のリフィを強引に押していく。許せ、いくら武勇を立てた勇者だったとしても健康的な女性には弱いのが自然の摂理なのだ。歳が近いならなおのことだ。




 リビングではソフィアがティーセットを用意していた。バスケットの中からシフォンケーキを取り出し、三人分に切り分けた。ソフィアが一度家に戻ったのはティーセットを用意するためだとわかった。




 「甘くていい匂い……」




 「今淹れている紅茶と同じ茶葉で作ったシフォンケーキなんですよ。私の自信作です!」




 部屋に紅茶の香りが広がる。ソフィアたちがリフィの部屋の掃除をしている間、リビングも片付けておいたので新鮮な空気と相まって紅茶の香りがよく引き立っていた。




 味気ない生活の中で香りだけは感じることが出来る。香りを感じるなら味覚も感じると思われがちだが、俺の場合はそうでもないのだ。どんなに香ばしい匂いでも、それを美味しそうと感じなければ舌と脳が感じてくれない。




 正直のところかなり疲れてきたのでリラックスできる紅茶の香りはありがたい。久しぶりの外出に部屋の大掃除ときたものだから気力の消費が激しい。




 「クラロス疲れてる?」




 席に着いたリフィが不安そうな瞳で俺を見る。




 「ん? ああ、大丈夫だ。リフィこそ疲れてないか?」




 「私は平気。すごく楽しいから」




 そうか、この少女は掃除という作業を楽しんで行っていたのか。ただの作業としか思っていなかった俺からすると、楽しむという感情を働かせるのすら難しい。




 「はい、熱いので気を付けてくださいね」




 「ありがとうソフィア」




 茶葉を蒸らしたポットから紅茶が注がれた。湯気と一緒に茶葉の香りが立ち上り鼻孔をくすぐる。




 リフィはソフィアの真似をして瓶に入っている蜂蜜をたっぷり紅茶の中に入れた。紅茶を飲むのが初めてなのだろうか、根気よく息を拭きかけて冷ましてから恐る恐るカップに口を付ける。




 「温かくて美味しい……」




 「美味しく淹れられたみたいでよかった。リフィちゃん、ケーキも食べてみて」




 アプリコットジャムがかかった部分をフォークで一口大に切り、口へと運ぶ。その瞬間、リフィの表情は甘く蕩けて、幸せそうな笑みへと変わった。




 「なにこれ! ものすごく美味しい! 私、これを食べるために生まれてきたのかもしれない」




 リフィの瞳はキラキラと輝いている。




 「もしかして甘いもの食べるの初めてなのか?」




 「うん、紅茶も初めて」




 砂糖は俺が生まれる前の時代は貴重品だったらしいが、近年では農耕技術も発展しているおかげで一般人でも手軽に入手できるようになった。そんな時代の中で甘いお菓子を食べたことがないというのは、胸が締め付けられそうな思いだった。




 「リフィちゃん……。また今度いろんなお菓子作ってくるね」




 「どうして二人とも悲しそうな顔してるの?」




 いかんいかん、楽しいティータイムが湿っぽい空気になってしまっている。ここは一つ空気を変えてやらねば。




 「それはそうとリフィ、俺からは美味しい紅茶の飲み方を教えてやろう。こうやって小皿にジャムを乗せて、スプーンで少しだけ掬ってジャムを舐める。それから紅茶を飲んでみろ」




 リフィは言われた通りジャムを一舐めしてから紅茶を口に運んだ。




 「不思議……、ジャムの甘さが紅茶と溶けあって美味しい」




 「だろ? 帝都より北のほうではそうやって紅茶を楽しむんだ。ソフィアもやってみろよ」




 「は、はい! ―――本当だ、果実の酸味と甘みが上品になってます! クラロスくんは冒険に出ていましたから色んな文化を知っているんですね。他にはないんですか!?」




 確かに勇者だったころは東西南北、色んな街や村に行ってはその土地特有の文化を楽しんだりした。土地や気候が違えば文化も違う。紅茶ではなくコーヒーが盛んであったり、食事が美味しければそうでない場所もあったりした。




 「私も知りたい。クラロスのお話、たくさん聞きたい」




 リフィという少女はどうして俺なんかの話を聞きたがるのだろうか。勇者の冒険譚であれば町の唄人の語りのほうが楽しく聞けるだろうに。




 そのことはひとまずは置いておき、紅茶の文化を記憶の底から拾い上げる。




 「そうだな―――、東の方の村では茶葉をお湯じゃなくて牛乳で煮だしている所もあったな。直接煮だしているから濃厚なミルクティーだった覚えがある」




 「淹れ方から違うんですね…!? 今度試してみようかな」




 カップを見つめながらソフィアは呟いた。彼女なら文化の違う淹れ方でも美味しく淹れられるだろう。




 以前にも、似たような光景があった。




 偶然任務が同じ時期に終わった俺とリューレとカルム。三人で食事をとろうということで、帝都の食事処でたまたま催されていた東国料理祭で食べた鳥の丸焼き。それを気に入ったリューレが後日、「レシピを再現したわ!」と俺たちは呼び出され目の前に出されたのが羽をつけたまま丸焼きにされた怪鳥だった。




 俺たちはもちろん食べることを遠慮したが、リューレがそれを許さなかった。




 結局渋々ひと口だけ食べてみたもののその怪鳥は食用に向いておらず、肉であっただろう部位はゼラチンのようにドロドロとしており、とても食べられたものじゃなかった。




 それでも俺たちは笑っていた、楽しかった。




 俺は今、平和と平穏という幸せの中で生きている。俺だけが、生きてしまっている。危険と隣り合わせの慌ただしい日々を一緒に送った友はもういない。彼らを迎えに行けなかった罪を償うにも、俺の体はそれを許してくれない。




 今この時間を俺は過ごしていていいのだろうか。




 今この時間を俺は楽しんでいいのだろうか。




 今この時間を俺は―――、




 「大丈夫だよ」


 いつの間にかリフィが俺の膝の上に向かい合うようにして座っていた。優しく抱きしめられ、リフィの体温が温かかった。




 「リ、リフィ? ぼーっとしていた俺が悪いが、なんで俺に座っているんだ?」




 「クラロスが壊れてしまいそうだったから。こうしておくと壊れない」




 「壊れないって―――。俺はもう大丈夫だ、だから降りてくれ」




 「ダメ、まだこうしてないとすぐに壊れちゃう」




 リフィは腕に力を入れて強く締め付ける。こうして抱きしめられると心が落ち着く俺と、気恥ずかしく思ってしまう俺がいる。どちらかというと後者の方が強かった。




 リフィという少女は俺の心が読めるのだろうか。彼らのことを思い出し、罪の意識を掘り返してしまっていた。




 自分がサバイバーズ・ギルトという状態なのは自覚している。あの戦場で自分だけが生き残ってしまったという自責、もし彼らを迎えに行けたのなら失うことはなかったという後悔。それらが罪として自分を苦しめるものなのだということを知っている。知っていても俺の心は許してくれない。自分を責め続けることが償いだと、彼らの分まで苦しみ続けることが生き残った者の責務だと意識してしまう。




 リフィはそんな俺の罪の意識を包み込むように抱擁し、受け入れてくれる。彼女の温もりはどこか懐かしく尊いものだと、俺は感じた。




 灰色の世界が白と黒に分かれた瞬間でもあった。






×××××






 外はすでに陽が落ち月明かりが宵闇を照らしていた。




 俺たち三人は夕食を済まして、リフィをシャワールームに押し込んでその間にソフィアを家へ送っていた。




 「初物の葡萄酒、美味しかったですね~。葡萄酒の違いってはっきりとは分からないですけど、葡萄の甘い香りが口いっぱいに広がりましたね!」




 俺とソフィアは夕食と一緒に酒問屋で買った初物の葡萄酒を開けた。ほんのり紅くなったソフィアは愉快そうに夜道を軽い足取りで歩く。




 「そうだな―――」




 やっぱり味はわからなかった。食事も酒もデザートも、色で例えるなら灰色。白でもなく黒でもない曖昧な色。ソフィアがせっかく作ってくれたのに美味しく食べられないというのは申し訳ない。




 「クラロスくん」




 「どうした?」




 「ご飯の味、本当はわからないんでしょ?」




 「……どうしてそれを」




 「無理してるの、隠してるようで全然隠せてないのクラロスくんらしいなって。味、わからなくたって気にしないですよ? 栄養があるものを食べてくれる。それだけで私は満足なんです」




 ソフィアには敵わないなと頭をかく。それと同じくらい嬉しいと思う。だからせめて正直に応えよう。




 「ありがとうソフィア。俺は、な……、仲間を、友を失ったあの日から何もかもが灰色に変わってしまったんだ。俺は、こうして生きていることに疑問を感じるんだ。本当に生きるべきだったのは俺じゃなくあいつらじゃないのかって……」




 軽く酔っているせいか、必要以上に弱音を吐いてしまう。




 「クラロスくん……。私はクラロスくんとまたこうして会えたことが、生きていてくれたことがとても嬉しいと思いました。私はクラロスくん自身じゃないから、クラロスくんがどんな気持ちを背負っているのか私にはわかりません。だけど、寄り添うことはできると思います」




 俺の隣に並んで歩いていたソフィアは大きく一歩を踏み出した。黒髪が月光に照らされて夜色に煌めく。彼女は振り返り翡翠の瞳を俺に向けて言葉を続ける。




 「それにクラロスくんに感謝している人だってたくさんいると思います。私もその内の一人です。私にとってのクラロスくんは生きる希望を与えてくれる白く輝く光なんです。だから私はその光が消えないようにお手伝いがしたいんです。クラロスくんに幸せに生きて欲しいんです」




 一歩前を歩く少女の想いは真摯だった。彼女は罪の意識を抱えた俺を受け入れてくれる。命を救った少女に、心を救われる。だから弱音が意識せずに零れてしまう。




 「俺は……生きてもいいのか…?」




 「いいんです! リフィちゃんだって同じように言うと思いますよ?」




 「リフィがか?」




 「あの子もきっと、私と同じでクラロスくんを支えたいんだと思います。あの子はクラロスくんにとって心強い味方になってくれます」




 「そう、だといいが……」




 リフィの「大丈夫」という言葉は不思議な温かみを感じたが、心強いというのは若干の不安というか疑問がある。




 「あ~! 私を疑ってますね~? オンナの勘って、結構当たるものなんですよ? あ、もう家に着いちゃいましたね。送っていただいてありがとうございました!」




 「ああ。その女の勘ってやつを信じてみるよ。おじさんたちにも、パンをありがとうって伝えておいてくれ。それじゃあ、おやすみ」




 「はい! おやすみなさい」




 一度礼をして家の中へ入ったソフィアを見届けた俺はそのまま踵を返した。




 「生きていていい……か…」




 帰り道はとても長く感じた。誰かに対してこんなに弱音を吐いたのはいつ以来だろうか。疲れが出てきたせいで心まで弱ってしまっているのだろう。これは早いところ家に帰ってさっさと寝てしまおう。






 家に到着するとリビングにリフィの姿は無かった。シャワーを浴びていたはずだが、時間的に終わっていてもいい頃だと思うが。




 「リフィ! 帰ってきたぞ!」


 シャワールームの前で呼びかける。




 「クラロス! 助けてっ!」




 「―――っ!?」




 リフィの助けの声に体が勝手に動いた。急いで脱衣所の扉を押し開け、浴室の中を確認すると湯気の中から金色が俺に向かって突進。びしょ濡れのリフィが裸のまま抱き付いてきたのだ。とりあえず緊急事態ではないようで一安心した。




 「どうかしたのか?」




 「お湯の止め方がわからないの」




 なんだ、と嘆息。お湯の出し方を教えれば止め方はわかるだろうと高を括っていた俺も悪いが、ここまで世間知らずだとは予想だにしなかった。




 「火の輝石に触れてからじゃないと蛇口のコックが回らないようになってるんだ。ほら、体を拭いてろ」




 裸を見ないようにリフィにバスタオルを被せる。帝都のインフラ技術は目覚ましいもので、輝石を有効利用することで簡単に湯を沸かすことができる。輝石というのは魔力の変換器みたいなもので、火の輝石と呼ばれるものは魔力を熱エネルギーに変換してくれるのだ。他にもコンロで火を起こしたり、暖房器具に使われたりと今では生活に欠かせないものとなっている。




 「本当に心強い味方……なのかねぇ…?」




 「なんだか失礼なことを言われた気がする」




 「それなら気のせいさ。とっとと服を着ろ」


 そう言い残し脱衣所から出ようとすると、リフィが服の裾を掴んで俺の動きを止めた。




 「今度はなんだ?」




 「着る服がないの……」




 完全に失念していた。リフィがこの家に訪れた時、荷物らしい荷物は無かった。つまり一張羅なのである。上等そうな服を寝間着にしろとは言いにくい。応急処置として昼のソフィアと同じように適当なシャツを貸すことにした。




 「仕方がない。明日も街に出てお前の服を買いに行くか」




 「お買い物!?」




 リフィの目が輝く。やはり女の子というのは買い物の類が好きなようだ。




 「ああ、だから今日着てた服は皺にならないようにしておけよ」




 「わかった。予定が延びないように服の皺もしっかり伸ばしておく」




 「だったら寝坊しないように今日はさっさと寝ろ」




 「一緒に寝るのはダメ?」




 一緒に寝ることをまだ諦めていなかったのか。




 「ダメだダメだ! というか俺もシャワー浴びたいからとっとと脱衣所から出ていけ」




 「むむむ、クラロスの頑固者」


 ふくれっ面で脱衣所を後にするリフィ。まったく、頑固者はどっちだ。




 ふと脱衣所の鏡に映った自分の顔が視界に入る。鏡で自分の顔を見る習慣などはなかったが、それでもわかることが一つだけあった。




 (笑っていた……)




 何故だかリフィの前となると自分の表情が豊かになっているのが感じられる。あの少女の何かが俺の心に影響を与えているのだろうか。




 シャワーを手早く浴び終えた俺はリビングのソファに身を預ける。テーブルには葡萄酒と適当なナッツ。毎夜のことながらただ無心で酒を呷るのが日課となっていた。そのおかげで苦い夢を見ることなく眠りに就くことができる。




 ただ、今日は無心になりきれなかった。


 聞かなかったことにしていたが、リフィと初めて邂逅したときに最後に口走った言葉。


 ―――好き。




 これまたストレートな言葉だと思った。きっとその言葉は恋だの愛の類。聞かなかったことにしたのは、それに応える勇気がないせいだと言い訳する。俺みたいな死に損ないが誰かに愛されるというのはおこがましいことだ。我ながら最低な男だが、どうか許して欲しい。




 グラスが空になる頃には、クラロスの意識も空っぽになっていた。






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