第6話
走って、走って、走って、逃げる。
その足元は不安定。
グニャリとして定まらず、とにき足に絡みつく。
それでも手で泳ぐようにして、必死にもがくよう、ただ前へ前へ。
ここまでくれば、もう大丈夫だろう。
そう思って振り返ると、すでに追ってくる者はいない。
ホッと安心して顔を戻す。
すると、振り切ったはずの追手がなぜか目の前にいた。
薄気味悪くなるような、うすら笑いを浮かべて……
……嫌な夢だ。
うんざりする。
ひどい悪夢を見て、ハッと飛び起きる。
それがいつの間にか、よくある朝の目覚めになっていた。
怠さの残る身体をどうにか起こし、座り込む。
冷えた汗が背骨を伝わり、尻の方へと流れ落ちた。
せめて今は、このじっとりして貼りつくような汗を流してしまいたい。
嫌な汗と共に、悪夢の余韻も一緒に消し去りたい。
とりあえず、小川へ行くかと、ぼんやり考えていた時だった。
ミシッという軋み音が、外の方で聞こえた気がする。
——気のせいか?——
いや、聞き間違えるような種類の音じゃない。
入り口の方、あるいはデッキのあたりだろうか。
——動物?——
野犬の類いかと考えたが、すぐにそれを否定する。
しなやかな重みでは鳴らないような軋み音だと、俺には思えた。
やはり、外に何かいるのではないか?
怪しい気配は、いまだに感じとれた。
今朝の悪夢に限っていえば、この怪しい気配がもたらしたものかもしれない。
あるいは現実世界で起こっている危険を教えるための、何らかの警告だったのか?
俺はゆっくりと膝を突いて立ち上がった。
床が沈み込んでミシッと音を立てぬよう、たわみの少ない床板を選び、足を運んでいく。
ここと定めた場所を、慎重に踏みしめつつ扉へ向かった。
慎重に慎重を重ねて扉の横までたどり着くと、そのまま息を殺して外の気配をうかがう。
外の怪しい気配の方はといえば、あちらも建物内の俺の気配を感じているのか、それともすさみ果てた建物の様子に進むことを躊躇っているのか、派手な動きはないように感じられた。
——慎重なのは、追手だからか? それとも……——
ふと、昨日の黒い巨体がよぎった。
鼻を斬り、片耳を落としてやった、あの黒く大きな塊のような怪物……
——奴が来ている?——
あり得ないことではないだろう。
奴にしてみれば、俺は立派な復讐の相手ということになる。
狩りを邪魔し、挙句に傷を負わせた。
この山に敵無しの怪物からすれば、放ってはおけない相手だろう、俺は。
縄張りの王は誰かをはっきりさせる。
それは誰もが認める理由だ。
もっとも言葉を理解しない獣にとって、理由が正当であるかどうかなど、どうでもいい話であろうか。
いや、そう難しく考えるまでもなく、事態はひどく単純なことかもしれない。
なにせ俺だって飢え、腹を空かせているのだ。
奴も単純に、腹が減っているだけなのかもしれない。
ましてや昨日、柔らかそうな(だが華奢で可食部分の少なそうな)小娘の捕食に失敗している。
生命を脅かす『飢え』が刺激し、備わった攻撃性を活性化させる。
満ち足りていた時分の数倍の鋭さにまで嗅覚を研ぎ澄ませさせ、俺という獲物の臭いを追いかけて……
そこまで考えて、俺は首を振った。
くだらないことを考えても、状況は変わらない。
必要以上に相手が飢えて鋭くなっているというのは、根拠のない妄想。
俺自身の飢えを、苦しみを、怪物のような黒熊に重ねているだけであろう。
それにまだ、相手が定まったわけではない。
追手の可能性もいまだ残っているし、まったくの見当違いの迷子の獣であるかもしれないのだから。
俺の思考が迷走しているあいだに、外の気配は近づてきているようだ。
様子を伺おうと壁の隙間に目の高さを合わせて外をのぞくが、心中で舌打ちを響かせることになった。
穴のすぐ外、そこにはデッキの手すりだろうか、視界をさえぎる何かがある。
ちょうどそれが邪魔になり、肝心な向こうの様子がよく見えない。
イラッとはしたが、腹を立てても壁や障害物の向こうは見通せるようにはならない。
壁越しに探ることをあきらめた俺は、中腰の姿勢をとり、すぐ横の扉に向き直る。
昨夜は床に引っかかり、閉めきれなかったドアは薄く開いたままだった。
しかしその隙間からも、角度的なこともあって外は把握できない。
そうこうするうち、いよいよ気配はすぐそこ、扉の前まで辿り着いたようだ。
扉脇に潜むこの位置なら、剣を振り回すより突き上げる方が早く攻撃できるはず。
この一撃にすべてを賭ける心持ちで備える。
——来るッ!——
扉がギシッと鳴った。
緊張が稲妻のように身体を走り抜け、全身の筋肉が爆発する時を今かと待つ。
‼︎
扉が開き、踏み込んだ足による床の軋みを合図として、身体は弾けるように跳ねた。
——もらった‼︎——
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