第5話

 娘は座り込んだままだった。

 坂を下って歩み寄り、娘のそばに立つ。

 せっかく大きな恩を売ったのだ。

 引き出せるだけの情報を、少女から引き出したい。

 それによって、俺の今後の動き方が変わってくるかもしれない。

「娘、連れはどうした、いないのか?」

「その前に、一言いい?」

「好きにしろ」

「ここは普通、心配するところだと思うけど。『大丈夫か』とか、『怪我はないか』って」

「フン、しゃべっているだろう。なら、生きている」

「そう、そういうんだ。だったら、あなたの心配をする必要もないわね」

「……で、連れは?」

「今日は一人よ。今までこんなところで襲われたこと、なかったもの」

——女が一人だけでいる。するとここは集落に近いのか?——

「無謀だな、護衛もなしで」

「いつもなら兄と一緒よ。兄は狩人だから。私も兄も、森に詳しいの」

 やはり近くで見ても、年端のいかぬ少女。

 まだ女と言うには若すぎた。

 この娘には、俺に対して含むようなところがない。

 むしろ少々厚かましいくらいで、警戒する素振りの一つもなかった。

 ということは、追手はこいつらの村で俺を探し回ったりはしていないと考えてもいいだろう。

 だが、できれば村の位置だけでも確認しておきたい。

——もしも兵が詰めているような村なら、あとあと面倒なことになりそうだしな——

「狩人か……、あんな化け物じみた熊が出るくらいだ、さぞかし獲物に不自由しないんだろう。だが今回のように、自分が狩られる側にならないよう注意することだな」

「それ、あたしへの小言のつもり?」少女は横を向いて不満げにつぶやく。

「……まあいいわ、あなたには、それを言う権利があると思うし、大人しく今は聞いておきましょう」

 俺はあいも変わらず座り込んだままの少女へと、手を差し伸べてやる。

 娘は遠慮なくそれをつかむのを見て、グイッと引き上げ、立たせてやった。

 正面から向き合う形になると、小柄な少女はうつむいて、頭に手をやる。

 散々追い回されて怖い目にあったのだろう、引っ詰め髪はほつれ、歪んでいた。

 いったん結びをほどき、その紐を赤い唇に咥える。

 頭を左右に振ると、細く長い髪が舞った。

 それを両手でサッと整えてうしろで縛りなおすと、俺を真っ直ぐに見つめる。

「ありがとう、助かったわ。あなたは私の恩人ね。……でも、なんて言うか……、ひどいわよ、その格好。穴だらけで、おまけにひどい汚れだわ」

「ん、まあな。おまえ——」

「——『おまえ』は止めてちょうだい。ジャニス、ジャニスよ。あなたは?」

「俺か、俺は——」

 逃亡者が本当の名前を言うわけにはいかない。

 俺はあたりを見回し、慌てて答えた。

「——ウッド、そう、ウッドだ」

「あら、覚えやすい名前ね。それに、何だか縁もありそう。あたしの村、シャーウッドの村っていうのよ」




 俺は娘を村の近くまで送った。

 娘——ジャニスだ——は、俺に礼をしたがった。

 『私の家に来て』と。

 だが、俺はそれを頑なに拒んだ。

 何も知らない場所に安易に踏み込むことほど危険なことはない。

 これが罠で、少女が俺を嵌めようとしてるなどとは、さすがに思わない。

 だが、万一にも追手に手がかりを与えるような愚は避けたかった。

 本当は喉から、いや、それこそ腹の底から手が出るほどに、礼が欲しかった。

 『食べられる物をくれ』と、恥も外聞もなく言ってしまいたい。

 いったいその言葉が、何度口から出かかったことか。

 命の危険から守ってやったのだ。

 それぐらいの報いはあるべきだ。

 当然のように、そう思った。

 しかしそれと同時に、はじめは『娘を見捨てようとしていた』という負い目もあった。

 『成すべきことを成したまで』と、誇れない自分がいる。

 良いことをしたはずではあるが、経緯を思えば自己嫌悪を覚えずにいられなかった。


 娘を送るために山を下りながら見た村は、三、四十軒程度、ざっくり二百人をこえるくらいの規模に思えた。

 村には櫓のようなものはないし、囲う柵も、門もない。

 本当に田舎の集落という体で、兵士が詰めているようなこともなさそうだった。

 どうやらこの村について、そこまで警戒しなくてもいいように思えた。

「これからどこへ行くの?」

「森に戻る」

「ここまで来たんだから、村に寄ればいいのに。良さそうな村でしょ? 行きたくなった? どう?」

「この格好を見ろ。誰がどう見ても、おまえ、いや、ジャニスを襲ったのは獣じゃなく俺だと思われるのがオチだ」

 ジャニスは声をあげて笑った。

「そんなの気にしなくてもいいと思うけど。まあでも、確かにそう思われてもおかしくないわね。嫌なら仕方ないわ。縁があったら、また会いましょう」

——呑気なものだ。さっきの事件のことなど、もうすっかり過去のことか……——

「いいか、絶対に一人で山に入るなよ。人を襲う奴は、そいつが死ぬまで何度でも人を襲うぞ」


 ジャニスは村へと下りながら何度も振り返り、そのたびに俺へと大きく手を振った。

 その様子を村の誰かが見て、興味を持ったりしないかと不安になる。

 俺はジャニスを見送るのを止め、背を向けた。

 村の状況がわかったことは収穫。

 だが……

 腹が減り、疲れた身体を引きずって坂を上り、あの小屋まで戻らねばならない。

 あの村に下り、謝礼を受ければ、それこそ腹一杯に食えたことだろう。

 感謝され、腹一杯になり、破れのない屋根の下で夢を見て眠れる……

 なまじ人の生活に近付いてしまったために、その想像が止められなかった。


 一人に戻った帰り道は、ひどく憂鬱だった。

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