第4話

 叫びは山を揺るがし、轟く。

 黒い巨体は突然現れた明確な敵意に動きを止めたが、それも一瞬のこと。

 ふたたび動き出す。

 俺を敵だと認めたのだろう。

 走る。

 斜面をかけ上がると、入れ違いに娘が坂を駆け下りていく。

 黒い巨体はせっかくの遊びを邪魔され、激怒したかのように低く唸りをあげた。

 他人事として安全な藪の中で見るより、間近で向き合うそれは遥かに大きい。

 四つ足を地面につけたままでも、黒い巨体の体高は俺と同じ。

 こいつが後ろ足で立ち上がれば、大上段に構える剣よりも突き抜け、さらに上の高さになるだろう。

 おそらく目方でいけば、俺の五、六倍はゆうに超えそうな巨体だ。

——あの娘、よく腰を抜かさずに逃げられたものだ——

 とても熊とは呼べぬような巨体は、四つ足のままで勢いよくこちらの方へ突っかけてくる。

 まともに喰らえば、ひとたまりもなく吹き飛ばされること間違いない。

 馬鹿正直に受け止めることはあきらめ、少しずつ下がる。

 同時に下がりながらタイミングを計り、素早く剣を横に薙いだ。

 剣先が、奴の鼻先へと線を引く。

——手応えあり!——

 さっきまでの勢いが嘘のように、巨体は斬られた鼻を気にして動きを止めた。

——ここから、どうする? 坂の上を取りたいが、下には娘がいるか——

 チラッと背後を見る。

 やはり娘はまだそこにいた。

 散々逃げ回って力尽きたのか、あるいは腰が抜けたのか、両手両足を突いて倒れたままで、少し離れた場所に留まっている。

 これでは位置を入れ替えるなど、とうてい無理なことだった。

 絶対的に不利な位置関係であるが、ここに踏みとどまって戦うしかない。

 鼻を切ってやった痛みのせいか、それとも奴の戦法なのか、黒い巨体は激しく頭を振りだした。

 ふたたび俺へ向かい、傷つけられた怒りを瞳に宿して押し出してくる。

 その姿はまるで地滑りか、雪崩。

 突進でも頭突きでも、まともに正面から食らえば卒倒して押し流されてしまう。

 黒い巨体の低い唸り声に、山が震えたように感じ、思わず腰が引けた。

 だが首を振り、思い直す。

——どうせ女が邪魔で避けられん。かわせないなら、道は前のみ——

 俺は次の狙いを小さな耳に定め、かすめるように剣を突く。

 さらに二度、三度と剣を横に振って耳を狙った。

 ただ剣撃を頭に当てるだけなら的は大きいのだ、そんなことはたやすい。

 しかしそれが致命傷にならなかったらどうなる?

 額の硬い骨にでも剣を弾き飛ばされてしまったら、そこで終わりだ。

 素手になった俺には、一粒の砂ほどの勝ち目もない。

 ならば、鼻に続いて急所になりそうな弱い部分、耳を狙う。

 踏み込み、下がり、下がり、踏み込み、また下がってさらに下がり、意を決して踏み込む。

 斬り払った黒い体毛が舞い散り、それを払うかのように巨体が頭を振り、ふたたび散った体毛は翻弄され舞う。

 目の前の巨体が巻き起こす風圧が、俺の頬を撫でる。

 いかに巨体といえど、耳は小さいものだ。

 そうそう当たるような大きな的ではない。

 空振りを何度も繰り返し、簡単に当たらぬものだとわかっていても気持ちは焦る。

 しかし相手は頭を下げ、激しく振っての攻撃。

 人との戦いとは違い、戦術的なものではなく単純な繰り返しだ。

 そのかわり動きは早く、勢いがあり、重い。

——落ち着け、ビビるな、よく狙え——

 自分で自分に言い聞かせつつ、何度も何度も同じことを繰り返していく。

「フン!」

 ついに俺の剣が捕らえた。

 切り離された一部が宙を舞う。

 すると奴はたまらず身をよじらせ、黒い上半身が中途半端に立ち上がった。

——ここが勝機、狙うは喉!——

 俺は勇気を持って飛び込み、一気呵成に決めに行く!


 ……そのはずだった。


 しかし、この大事な場面で身体が動いてはくれない。

 飛び込んで柔らかい喉に、腹に、渾身の一撃を喰らわせるどころか、ただの一歩が踏み出せない。

 イメージの中では、もうとっくに勝負がついているはずだった。

 空腹のせいだ。

 気持ちと勢いだけで、どうにか動ける分の体力はすべて使い切ったのだ。

 瞬間、全身から汗が吹き出す。

 あの高さから腕を一振りされたら、ひとたまりもない。

 為す術なく潰されるか、吹き飛ばされるか。

 そんな悪い予感、いや、確信が一瞬の間に身体を走り、総身が震えた。


 後ろ足で立ち上がった巨体が、俺に覆い被さるかのように傾いてくるのがゆっくり見えた。

 あの小屋の隣にあった潰れた倉庫が思い浮かぶ。

 もはやこれまでと、覚悟を決めるしかなかった。

——最後に娘のためになったなら、それも一つの救い。せめて格好だけは——

 両手を広げ、足を踏ん張り、うしろへは行かせんとの意思を身体で見せ、最後の刻を待った。


 ……


 …


 幸運にも、その瞬間は訪れなかった。

 黒い巨体は前足を下ろして身悶えすると、あとずさりした。

 振りかぶった一撃ではなく体当たりに変えたかと、再度、俺は死を覚悟した。

 しかし、奴は尻を見せた

 その場でクルっと反転したのだ。

 確実な勝利を目前にしながら、鼻と耳をやられたことで戦意を失い、自分自身で負けを決めたのだ。

 またしても、俺は生き残ってしまったらしい。

 剣を無造作に地面へと突き立て、そこへもたれかかる。

 座ってしまいたかった。

 だが、座ったら最後、もう立てないだろう。

 そのまま耐えて、ゆっくりと息を整える。

——そうだ、小娘は……——

 坂の下の方へと視線をやると、娘は俺の方を見ながら、なおも座り込んでいた。

 どうやら逃げなかった、いや、逃げられなかったらしい。

——俺が負けたら、どうするつもりだったんだ?——


 しばらく休んだあと、俺は剣を地面から引き抜いて肩に乗せ、坂を下った。

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