第3話
大きく伸びをして、空気を吸い込む。
よく眠れたせいか、肌を撫でる外の風が心地よい。
これが遠駆けや狩りで訪れた森ならば、最高であったろう。
青く抜ける空を仰げば、昨日まで俺を付け回していたあの鳥も姿が見えない。
俺を、あきらめたのだろうか?
孤独になるまでの俺は、用意されたものだけを食べて来た。
料理長が作り、メイドが給仕する。
たとえ戦場であっても、干し肉やスープを自分で用意して食べたことなどない。
だが、誰一人として供がいなくなった今、それでは一切を口にできない。
おまけに干し肉やパンなど全くない。
では、どうしたのか。
いったいなにが食べられるのかという知識もない俺は、ひとつひとつ手をつけていくしかなかった。
手を、いや、口を、というべきか。
とりあえず柔らかそうな葉から口に含んでみる。
ひどく苦いものや、ピリッとした刺激のある物はすぐさま吐き捨てた。
どれもこれもえぐみがあって不味いものばかりだったが、いまの俺は贅沢を言える立場にない。
文句を言おうにも、誰一人として従者はいないのだ。
食べているときの惨めさが、我が身にこたえた。
今は仕方ないと我慢して草を食いながらも、昔の食事を思い出すことは止められない。
そうなれば、どうしても比べてしまう。
温かさ、味、におい、彩り、目にした時の期待感……
いかにかつての俺が恵まれていたかを思い知らされた。
自分の舌で何度か試すうち、手当たり次第に食べてみることはやめた。
この森の中には、俺以外の生き物がいるという、しごく当たり前のことに、今更ながら気づいたのだ。
彼らも必ず、何かを食べて生きている。
だから俺は、虫や鳥が食べないものを口にすることはやめ、彼らの食った物に手をつけることにしたのだ。
獣だって毒や不味いものを積極的に食べるはずはない。
彼らにとって美味いもの、身体に良いものを食べているはずだ。
そう考えて盲滅法に食べることを止めてから、吐き出すことは減った。
だが、こんなものでは到底満たされない。
身体も、心も。
とりあえず目先をしのぎ、どうにか生きているだけ。
先のことはいまだ、なにも考えられないでいた。
——戻るか——
満たされない食事を終えた俺は、小屋の方を見やる。
——あのボロ屋にしばらく住むなら、手入れが必要だろう。しかし、道具や材料はどうする? そもそも、この俺に直すことなどできるのか? うんざりするが、仕方ない。いったん家の中を探してみて、それからのことだな——
冴えない頭でそんなことを考え、小屋へと戻るべく歩いていたときだった。
静けさを貫く、女の悲鳴が聞こえた。
——久々の人の声、だな——
「誰かぁ! 誰か、助けて‼︎」
——悲鳴か…… フン、女の悲鳴だな、あれは——
自分以外の声を久しぶりに聞いたせいだろう。
言葉やその意味よりも、人が発した声であるということが感慨深い。
その言葉に込められた切実さや緊急性とは真逆に、俺は呑気にそんなことを思い、ひとり愚痴る。
「助けて欲しいのは、俺の方だ」
本当は、感慨にふけっている場合ではない。
『女を急いで助けるべき……』という、そんな安直な意味ではない。
俺はここまで、さんざ襲われてきた。
奴らがあきらめていないなら、いまだこの森のどこかに追手が潜んでいるということになる。
もしかすれば、俺を探すはずの追手が女を見つけ、そのついでで悪さをしている可能性だって十分に考えられる。
俺への追手が悲劇に関わっているならば、逃げなければ殺されるのは俺だ。
——しかし、助けずとも今後のために状況を確認する必要はあるか?——
逡巡ののち、俺は行先を悲鳴の聞こえた方へと変えた。
生い茂る藪を泳ぐようにかき分けて進むと、ふいに視界が開けた。
そこは目の前を横切るような傾斜地で、どうやら小さな街道のようだ。
藪に身を潜めたままで、左手の方、坂の上に視線をやる。
そこには追う者と、追われる者がいた。
追われて逃げる人。
追うのは黒く大きな野生の塊。
状況をざっくりとつかんだ俺は、フッと息を吐いた。
黒く大きな獣。
それが意味することはひとつ。
俺への追手ではない、ということだ。
安心した俺だが、万一もあり得ると、気を引き締める。
追う一頭と逃げる一人から視線を切って視線を右へ。
正面、さらに右手の坂下へと注意を向けていく。
しつこく何度も左右に目を走らせてあたりの様子を伺うが、どうやら黒い獣と女以外に動く影は認められない。
どうやら、今の俺は安全のようだ。
一方で黒い獣から逃げようと今も必死の女には、残念だが頼れる仲間はいない。
彼らを追う影もなく、間に飛び入って助けるような猛者もいない。
女は拾った枝だろうか、いや、あれは弓か、めちゃくちゃに振り回しながらうしろ向きに坂を下る。
逃げ腰でいくら振り回そうとも、そんなことで獣が怯む様子は欠片もない。
むしろ黒い熊のような個体からすれば、『一緒に遊んでいる』ぐらいの感覚かもしれなかった。
——モンテルレイの山奥には、黒い怪物が住むという伝説があったか? 黒き獣を追い払い、娘を助けた男はやがて英雄になる。およそ、そんな話であったろうか——
逃げようと必死の女を見ると、まだ若い。
女というより、まだまだ小娘に過ぎないのではないか。
このまま見捨てれば、娘は盛りを迎えることなく散ってしまう運命であろう。
——では、俺が助けるべきか?
……いや、追手から必死に逃げまわっている俺が娘を助けるだと? どこにそんな余力がある。笑えない冗談だな——
通りに飛び出して人を助けて大立ち回りを演じるなど、悪手も悪手。
追手に『俺はここにいるぞ』と主張せんばかりの危険な行為だ。
騒ぎを見られれば、自分の居所を知らせることになる。
仮に目撃されずとも、生き残った娘が戻って話をすれば同じことだ。
俺自身が万全であるなら腕試しも一興だが、今はその時ではない。
ここは攻め込んだはずの敵国なのだ。
敵国領で、なんの縁もゆかりもない、見知らぬ娘が一人……
おまけに俺は飢えている。
ならば、見捨てることがここでの最善。
俺は目の前の騒ぎを無視することに決めた。
哀れな娘はどうしようもなく、坂を後退するしかない。
少しずつ俺の前の方へと坂を下ってくる。
それにつれて黒い巨体もまた、娘を追う。
このまま時間が経てば、無難にやり過ごせるだろう。
俺の眼前を左から右へ、坂上から坂下へと、ただ通り過ぎるだけのこと。
——せめて最後まで見物せず、立ち去ることが情け、か——
娘が嬲り殺されるところを見て楽しむ趣味など、俺にはない。
気配を殺したまま、万一に備える意味でも、この場所から立ち去ることにした。
踵を返し森の中へと消えるべく歩き出した俺の背に「助けて!」と、切羽詰まった声が投げられる。
「早く!」
なぜだろうか、その声は明確に俺へと向けられているように感じられた。
——娘に俺が見えた? そんなはずは——
つい、声がする方へと振り向いてしまった。
その瞬間、娘と俺の視線が交差し、ぶつかる。
間違いなかった。
その瞳は俺を見ている。
それだけではない。
女の細い足は、確実に藪に潜む俺の方へと駆けていた。
うしろでくくった髪が、必死さを表すかのように左右に激しく跳ねる。
『信じる者のために生きよ』
なぜかその時、ある言葉が頭をよぎった。
瞬間、身体は動きだしていた。
藪から飛び出した俺は、吠える。
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