M17 最後のチャンス

 レッスンスタジオの床に大の字で転がった湊音は天上を眺めた。電球の光源が視界を掠めて、目がちかちかする。


 小学一年から中学卒業まで、ピアノを習っていた湊音は楽譜が読めた。音階を歌唱へと昇華させる才能には恵まれなかったが、音階を歌に形作る程度ならできる。

 謎解きをするように、編み物をするように。柚愛の楽譜を歌に組み立てる作業をやり遂げてみせた。


 しかし、音楽と距離を置いていた湊音が楽譜を読み解くのは、骨の折れる作業だった。

 中学校の授業で習った範囲――例えば、三平方の定理や関数――の抜き打ちテストを受けた気分だ。


「ニコチンより糖分がほしい」


 誰に宛てたわけでもない呟きは、さくらに拾い上げられた。


「湊音さん、ヘビースモーカーなのに私の前では吸わないですよね」

「平均一日二本しか吸ってねーよ」

「それってヘビーじゃないんですか?」


 さくらの基準によると、喫煙者は全員ヘビースモーカーだ。

 まあ、吸わない人種からは全員中毒者ジャンキーに見えるのだろう、と湊音は独りごちた。


「吸っていい時と吸っちゃいけない時の判別ができるくらいには、ライトなスモーカーだよ」


 体育座りのさくらを見上げる。スカートを履いていたら、完全に見てはいけないものが見える角度だった。

 気が抜けているというか、危機感がないというか――放っておけない。


「メロは入りそうか?」

「はい。あとはこの曲と友達になれれば大丈夫です」


 湊音の仮歌を録音したスマホを掲げて、さくらは言った。

 柚愛の曲を落とし込むまで、自分の歌声を何度も聞かれると思ったら気恥ずかしい。湊音は頬を人差し指で掻いた。


「湊音さんは、私の歌が好きって言ってくれましたよね」

「ああ」

「私がアイドルになりたいなって思ったきっかけは、それなんですよ」


 湊音を見下ろすさくらは、やわらかい笑みを浮かべる。

 降り注ぐライトを背にしたあどけない笑顔は、湊音の目には眩しすぎた。


「テレビで見たアイドルがキラキラしてて、ママにアイドルになりたい、って言ったんです。ママは手作りの衣装を作ってくれました。そのワンピースを着て家族や友達の前でアイドルごっこをしたら、みんな喜んでくれたんです。

 私が歌って踊ったら、みんな喜んでくれる。笑顔になってくれる。テレビの中のアイドルが私に元気をくれたように、目の前の人を感動させられることが嬉しかったんです」


 どこかで湊音が置いてきたものを、さくらは持っている。それが眩しいのだ。


「でも、湊音さんが教えてくれた通り、歌う仕事はいっぱいあるんだって知りました。柚愛さんの歌を聞いて、ライブに連れて行ってもらって、気づいたんです。私がなりたかったのは、大好きな歌で誰かの夢を応援すること。アイドルっていうのは手段の一つだったんだって」


 足を上げてふんっと力を入れた。起き上がり小法師の要領で体を起こす。

 人がどう感じ取るか。それは表現する側が強制できるものではない。それを押し付けるのはエゴだ。


「他人を感動させようってのはご大層だけど」

「自己満足でもいいんです」


 さくらははっきりと言った。

 頑固なさくらだが、これだけは譲れないとでも言うように。


「だってそれが、私の原点だから」


 強い言葉は湊音の胸を刺した。






 さくらの笑顔で回想が途切れたのは、湊音の肺が限界を訴えたからか。風見楽器店の看板が見えたからか。


 二日前の出来事が頭を占有していたおかげで十五分間走りきれたが、気力だけで動かし続けた湊音の足は限界を告げていた。


 いつまでも気持ちは若かったが、アラサーに片足突っ込んでいるのだ。最後に全力疾走したのがいつか、記憶を遡っても思い出せない湊音の足が負荷に耐えられるはずもなく、ガクガクと小刻みに震えている。


 恐らく『ランナーズハイ』や『ゾーン』と呼ばれるものに近い感覚だったのだろう。

 そんなことに意識を巡らせる余裕を取り戻す前に、店内から女の怒り声が飛び出した。


 滝のように流れる汗を拭うことすら忘れて、湊音は弾かれたように店内を覗き込む。

 柚愛はカウンターで剛二と向かい合っていた。口論、ではない。柚愛が一方的にまくし立て、剛二が落ち着かせるために諭す。恐らくそれを二十分繰り返していたんだろう。


「湊音くん……!」


 一颯は待ち構えていたのか、湊音の顔を見るなり店先に飛び出した。


「柚愛は」


 口の中が血の味で気持ち悪い。一瞬息が続かずに言葉を詰まらせたが、無理矢理続きを吐き出した。


「なんて言ってんだ」

「今から楽器全部持ってくるから、査定してくれって……。おじさんの話もまったく聞く耳持ってくんない」


 黒のキャスケットを目深に被った柚愛は、カウンターを思いっきり叩いた。楽器屋に似つかわしくない重低音が反響する。


「もう覚悟は決めたの!」


 それは決意の表明というよりは、悲鳴だった。冷静さに欠けるヒステリックな叫びは、『音楽を捨てるから、楽器を捨てる』というよりも、『楽器を捨てれば、音楽を捨てられる』ととれる声音だった。剛二が必死に説得を試みているのも頷ける。


「本当にいいのかい。そのベースは君が最初に買った大切なものだろう」


 黒地に金で縁取られたベース。ギブソン社が開発した、独特の形状をしたレスポールだ。

 ところどころ塗装が剥げた本体と、細かい傷が彼女の努力を物語っている。そのボロボロの出で立ちすらも、芸術品のように美しい。


 まじまじとベースを見ていた湊音に、剛二は気づいたらしい。続いて振り返った柚愛はあからさまに顔を歪めた。その表情も見慣れた湊音は、柚愛に向き直った。


「お願いだ。さくらのライブに来てくれ」


 言葉を飾ることもせず、率直に言った。ただただ真摯な言葉を添えて、チケットを差し出す。


「あの子にあわせる顔あると思う?」


 プロポーズのように頭を下げた湊音に向けられているのは、戸惑いの視線だろう。見なくてもわかるほど、柚愛の声は震えていた。


「それでも、さくらはあんたを待ってるんだ」


 湊音は折れないと決めた。後悔するのはこりごりだった。

 何度も何度も後悔するのなら、自己満足で得る後悔を選択する。少しくらい自分に正直に生きたっていいのだ。


「私にそんな資格……」

「お前があいつに歌を託したんだろ。だったら、あいつのライブ見届けてくれよ」


 唇に指をあてた柚愛は、チケットに視線を泳がせた。

 お互いに折れない沈黙。その空気をリセットしたのは、剛二の助言だった。


「行ってあげるんだ、柚愛ちゃん。楽器を売るのも、音楽をやめるのも。その子のライブが終わってからでもできるだろう」

「でもっ……」

「聴いてくれる人がいなきゃ、せっかく鳴らした音も意味がない。それは君が一番わかってるはずだよ」

「聴いてくれる人、ですか」

「届ける相手がいないステージ上ほど、寂しい世界はないだろう」


 ゆっくりと柚愛の指がチケットに伸びる。


「楽しんでおいで」


 剛二と一颯に見送られて、湊音たちは風見楽器店を出た。

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