M16 楽屋
「はあぁぁ~。緊張しますぅ」
鏡に映るさくらの表情は硬い。ライブ本番を控え、緊張するのも無理はない。
――のだが、目と鼻の先でさくらを待ち受けているのはリハーサルだった。
照明や音響の調整ができる、唯一の時間。つまり、客はおらず、段取りの確認の時間だ。
リハーサルは出順の逆に進行する。つまり本番の最後である『オオトリ』から、一番目の『トッパー』にかけて行われるのだ。
ちょうど三組目のリハーサルが始まったところで、二番目のさくらが呼ばれるのも時間の問題である。
「まあまあ。本番の前の予行練習みたいなものだから、気楽にね」
「はひっ」
果菫の気遣いに、思いっきり噛みながら返事をしたさくらは、口を両手で押える。ぴんと伸ばした背筋は、自信なさげな猫背になった。
こんな調子で本番は大丈夫だろうか。見かねた湊音は、丸まった背中に質問を投げた。
「オーディションとリハーサル、どっちが緊張する?」
しばし黙考したさくらは、おどおどと声を震わせる。
「……オーディションです」
「じゃあ、オーディションと本番は?」
「わかんないです」
「ほんとか?」
湊音は悪戯っぽく笑った。
「怪物みたいなオカマ野郎はいないんだぜ。あれより怖いもんないだろ」
さくらは瞬きを繰り返すと、はっとしたように言った。
「そうですね。ここにはあの人いないですもんね」
鏡越しにさくらと目があう。そこにいたのは、見えない敵に負けそうなさくらでも、尻餅をついた気恥ずかしそうなさくらでもなかった。
「お前の歌はすごいよ。自信もてって」
「はいっ」
力強い返事に、湊音と果菫は顔を見合わせる。
さくらなら大丈夫だ。根拠はないが、湊音は確信していた。きっと果菫も。
「今日のライブは、果菫さんの後輩さんが関わっているんですよね」
「友達のバンドが主催なんだって。トリのバンドらしいけど――」
今日のライブは学生バンドの寄せ集めだ。まさに柚愛の言う『楽しければそれでいい連中』が、ほぼ全ての出演者であり、観客だった。
ほとんどが知り合いで構成されているらしい彼らは、挨拶のように『俺らが出る時、ちゃんと盛り上がれよ』と言い合っている。嫌でも耳に入るみみっちい言葉が湊音を辟易とさせた。
今なら柚愛が気持ちが理解できる。
「確か出演予定のやつが飛んだんだろ」
「無責任っすよね、ほんと」
よくある話ではあるのだが、飛ばれた側はたまったもんじゃない。知り合いでもないアイドル志望をステージにあげるくらいだから、そうとう切羽詰まっていたのだろう。
「柚愛さんにも見に来て欲しかったな」
さくらは机上のチケットに視線を落とす。
しんみりと沈んだ空気を打ち壊したのは、男の軽薄な声だった。
「果菫せんぱ~い」
楽屋の入口から、金髪のマッシュヘアーが腕をぶんぶんと振って、三人めがけて駆け足で突っ切ってくる。
「マッシュルーム」
さくらの小さな呟きは、果菫の耳に留まったらしい。果菫はぶっと噴き出すと、腰を折って笑い始めた。
正式名称『マッシュルームヘア』と呼ばれる髪型は、巷で揶揄される愛称そのまんまなのだが。改めて言われると、ツボに刺さるものがあった。
彼の顔が横長なのも相まって、マッシュルームにしか見えない。湊音は必死で顔が歪むのを抑える。
幸い『マッシュルームくん』には聞こえなかったらしく、堰を切ったように果菫が笑う原因を探している。上下左右に視線を泳がせる彼は、敬愛する先輩に髪型を笑いものにされているなんて露も知らない。
「ごめんごめん、なんでもない」
「ほんとっスか?」
「ほんとっすよ。
「それは先輩だけっス。てか、ライブハウスでは『マッシュ』って呼んでくださいよ~」
彼のトレードマークは、ステージネームでもあったらしい。
大学デビューのテッパンである、ブリーチとマッシュをきめたところ、サークルで好評を得たといったところか。
もちろん好評というのは思い違いで、湊音たちのように彼の容姿から連想してからかわれただけのような気もするが――彼がステージネームにするほど気に入っているなら何よりだ。この世には知らぬが仏という言葉があるのだから。
「今日はマジ感謝っス」
「お礼ならさくらちゃんに言ってよ」
「さくらさん、マジでありがとうございます。俺、この店でバイトしてんすけど、先月も知り合いのライブ捻じ込んだら、タイテに空き作りやがって。なぜか俺がオーナーにシバかれたばっかなんすよ」
ぽかんとしたさくらは、言葉の意味の三文の一もわかっていないのだろう。
数秒の沈黙を経て、彼の私情を理解することは捨てたらしい。賢明な判断だった。
「こちらこそ、誘っていただいてありがとうございます。今日は精一杯頑張りますので、よろしくお願いします」
深々と頭を下げるさくらに、マッシュくんは頬を赤らめた。それを見逃す果菫ではなく、マッシュくんの肩に腕を回す。
「なんか用があったんじゃないの?」
「あっ、そうっした。さくらさんの照明の件なんスけど」
湊音のポケットでバイブが揺れた。通販の営業メールだろうと無視するが、すぐに終わると思った振動は止まらない。
電話だったか。湊音の中で結論がでるまで時間を要した。仕事を辞めてから、しばらく電話がと無縁の生活をしていたせいで、その存在をすっかり忘れていた。
画面に表示されていたのは、やはり『着信』の文字だった。その上に記載された名前を見て、湊音は通話に応じることを決める。
「席外すわ」
話し込む三人にスマホを見せて、楽屋を後にする。
ライブハウスの裏側といえど、完全に静かな場所はなかった。ドラムの重低音が響く廊下の端で、通話ボタンを押す。
「どうした――」
「もしもし、湊音くん!?」
湊音が『ど』を言い終わる前に、話し始めた一颯の声は荒かった。
「どうした」
もう一度、湊音は聞き返した。一颯が息を吸う音が聞こえる。
「柚愛が店に来てるんだ」
「柚愛が?」
「ベースを売るって言い張ってて、おじさんが止めてんだけど」
「わかった。俺が行くまで、なんとか時間稼いでくれ」
「善処する」
力強い言葉を聞いて、通話を切る。
きっと最後のチャンスだ。湊音の直感が告げていた。
ここで止めなければ、柚愛は完全に音楽を捨てることになる。
「さくら!」
飛び込んだ湊音に、楽屋中の視線が集まった。
もちろん談笑していた三人も、何事かと目を見開く。湊音は机上に置かれたチケットを掴むと、踵を返した。
「借りるぞ」
「ちょっと! 湊音さん!?」
困惑した果菫の声が引き止めるが、湊音の足を止める力はなかった。
まっすぐにドアに向かう湊音の形相を見て、有象無象も道をあける。
「どうかお願いします!!」
何も言っていないのに、さくらは全てを察したように言った。
その声を追い風に駆け出した湊音は、柚愛に歌を託された日のことを思い出した。
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