M15 苦手なステップ
蒸し暑い夜だった。
グレーがかった壁の三階建てビル。入口横の簡易に設置された喫煙スペースに、湊音は立っている。肺を煙で満たす以外に、自身の無力さを埋める方法を知らなかった。
――東京は星が見えないらしい。
上京を控えた湊音に友人が贈った言葉だった。
ふと思い出し、頭上を見上げる。
都心こそネオンに埋もれてしまうが、湊音の住んでいる郊外ではちらほらと星が瞬いていた。それでも中途半端なベッドタウンで見えるのはせいぜい二等星までだ。
だが、星は輝いている。湊音の目には映らない無数の星だって、何億光年も先で爛々と光っている。
それでも夜空で一際目に留まるのは『月』だ。
地球の衛星だから月と名付けられ、知らない者はいない。しかし、他の星との違いなんてそれだけだ。
遥か彼方の惑星に宇宙人がいると仮定しよう。彼らは月を見つけても、適当な記号でナンバリングするはずだ。地球人が目立たない星に記号付けするのと同じように。
運よく地球の衛星になれたから、月は月になれた。
「まるで柚愛だな」
井の中の蛙である月の周辺に、星は見えない。一番近い宵の明星でさえ、距離が少し離れている。
地球の夜空で誰よりも輝いている月は、周りの星から見れば眩しすぎて近づくことができないのだ。
「あいつに例えるには、ちょっと壮大すぎだな」
途方もない妄想にタバコ一本を費やした湊音は、灰皿に吸殻を落とす。
ガラス張りの扉を潜ると、カウンターの店員に一言伝え、階段をあがった。一段一段踏みしめるごとに足音が反響する。
四つ並んだ部屋のうち目的の番号を見つけた湊音は、ゆっくりと扉を開いた。
「ワン、ツー、スリー、フォー……」
曲にあわせてカウントを数える、吐息交じりの声が聞こえた。
湊音が会いに来た人物――さくらはカウントにあわせてステップを踏んでいる。彼女の動きにあわせて、汗が飛び散った。
柚愛を『積み上げた努力によって創りあげられたアーティスト』と言うなら、さくらは『努力を積み重ねる天才』だ。
ほとんどが空回りかもしれないが、さくらは成長するためなら何でもする。努力を苦と思わない。
さくらは歌うことが好きだ。だから音を楽しめる。柚愛との決定的な差はそこだった。
「きゃんっ」
ターンしたさくらが勢いよく尻餅をついた。足を絡ませてしまったのだろう。
スタジオの端で眺めていた湊音は、慌てて駆け寄った。
「大丈夫か?」
涙の浮かんだ瞳が、鏡越しに湊音を見る。
大事はなかったようで、お尻を押さえたさくらは照れたように笑った。
「湊音さん見てたんですか。恥ずかしいなぁ。あそこのステップなかなかうまくできなくて……」
「気合入ってるな」
「もちろんです!!」
タオルを肩にかけたさくらは腕を曲げた。力こぶをアピールしたいのだろうが、細くて折れそうな腕に変わりはない。
湊音は紙袋を差し出した。以前、彼女にハンカチを返却された紙袋よりも、二回りは大きい。
薄桃色の紙袋は果菫が用意したものだったが、一見すると恋人へのプレゼントのようなそれに、さくらは小首をかしげた。
「さしいれ」
「ありがとうございます!」
ぱっと顔を明るくさせたさくらは、中を覗き込んだ。
「わーっ! いっぱい入ってる」
差し入れの中身は、行きすがらのコンビニで湊音が買ったスポーツドリンクと、果菫から預かったゼリー飲料。
それと――
「これは?」
さくらは白い封筒とクリアファイルを取り出す。
まず湊音は白い封筒を指さした。
「果菫から預かったチケットだ。さくらが落ち込んでるって聞いて、心配してたぞ」
「渡せるといいんですけど」
いつになくさくらは弱気だ。消え入りそうな声を聞いたのは、彼女と出会った日以来だった。
「クリアファイルの中身は楽譜だ」
「楽譜ですか……?」
「柚愛から預かった」
「会ったんですか!?」
打てば響くようなタイミングで、さくらはたずねた。
期待に満ちた目から視線をずらすと、さくらは肩を落とした。
「さくらが言ってた通り、柚愛は音楽をやめたいなんて本心から思ってない」
「やっぱり……」
「でも、引き留められなかった。俺には資格がないから」
湊音に残されたのは後悔だった。あの時、引き留められなかった後悔。
自分と柚愛を重ねてしまったからか、さくら同様に彼女を救いたいと思ってしまった。たとえそれが自己満足だとしても。
「さくらに感化されたのかな」
「どういう意味ですか?」
湊音はさくらの問いに応えなかった。代わりに当然のように言い切った。
「ライブでその歌を歌うんだ」
さくらは目を見開く。そしておどおどと言葉を紡いだ。
「私が歌ってもいいんでしょうか」
「お前じゃなきゃダメだ」
非科学的なことを信じているわけではないが、縁に恵まれなかった二人が路上ライブを通して出会ったのは、湊音に運命めいたものを感じさせた。
「柚愛がお前に託した歌なんだ」
さくらは大きく頷いた。
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