M14 コーヒーグラス
静かなカフェ。湊音たちが案内された席は窓際にあった。
アスファルトを焦がしていた陽炎は、天井から床に繋がる掃き出し窓の外で、白から赤に色を変え始めている。
「今更だが、俺は鳴海湊音。あんたが路上ライブしてるところに、偶然居合わせた。それからさくらに頼まれて、あんたのことを探してた」
湊音は簡単な自己紹介を告げる。興味がなさそうな柚愛は、ふ~んと小さく喉を鳴らした。
「探偵かなにか?」
「違うけど」
「仕事でもないのに人探しに協力するなんて、よっぽど暇なのね」
さりげない言葉が、湊音の心臓を掴んだ。
閉口した湊音とは対照的に、涼やかな顔をした柚愛は口を開く。
「私は雅楽代柚愛。学生」
湊音以上に簡素な自己紹介だった。
そもそも自己紹介は必要不可欠なものではない。相手の呼称が把握できるかどうか程度のものだ。
それでも会話の切り口に用いられ、誰もが長々と蛇足をつける理由は、相手に与える印象を良くするため。湊音と打ち解ける気のない柚愛が語尾に身分をつけただけ、十二分に立派と言える自己紹介だった。
「なんで音楽をやめようと思ったか。って話、だったよね?」
カラン
氷の溶けた音が相槌を打った。
「私のこと嗅ぎまわってたのなら、噂くらいは聞いたことあるでしょ」
「……色んなバンドを転々としてるって聞いた」
本人を前にして『いわくつきのバンドマン』と口にするのは憚られた。
差し当たりのない程度のオブラートに包んだ噂話を、柚愛は否定しない。
「一か月も耐えられないんだ。私も組んだ相手もね」
「耐えられない?」
「そう。耐えられない、我慢できないって感じかな」
柚愛はゆっくりと窓の外に視線を落とす。
「柚愛が解散を促してたわけじゃないのか」
「いや……、うん、そうだな。周りから見れば、私が仕向けたように見えてたのかもしれない」
抽象的な表現の末に返ってきたのは、歯切れの悪い答えだった。
「目標にしていたバンドマンがいたんだ。その人に憧れて音楽を始めた。でも、その人はプロ目前でバンドから脱退したんだよ。理由はわからなかった。突然、何の前触れもなく、その人はステージから消えた」
柚愛はステージを睨みつけた。悔しさとやりきれなさが声色に滲んでいる。
「そんな人でも、簡単にいなくなっちゃう世界なんだ。あの人が加入してたバンドはプロで売れて――あの人の痕跡を消して、メジャーシーンの頂点にいる。
簡単にはスタートラインに立つこともできない。生き残るためには誰より努力しなきゃいけない。あの人以上に上手くならなきゃいけない」
柚愛の根底にあるのは、憧れと焦燥だった。
卓越した演奏力を持っている――そう評された彼女は、積み上げた努力によって創りあげられてきたのだ。
「私に声かけてくるバンドマンはチヤホヤされたいだけなんだよ。かっこよく演奏できる自分をほめてほしい。けど、努力はしたくない。
それで私と噛み合わないってわかると、早々に音を上げるんだ。「お前にはついていけない」って言い残して去っていく」
柚愛がひとしきり話し終えると、湊音ははっきりと告げる。
「音楽を始める動機も、続ける理由も。大概のやつはそんなもんさ」
「最近まで、そんなことに気づかなかったんだよ」
バンドが続かなかったのは、柚愛と同じ熱量で音楽にぶつかる仲間に出会えなかっただけだ。
されど、そんなことは簡単に解決する問題じゃない。柚愛ほどストイックに音楽に向き合っている人間を探すのは難しい。
「私は向いてないんだよ。音楽やることに」
「それは早計すぎやしないか」
柚愛はふるふると首を横に振った。
「チームプレーができない私はバンドやるのに向いてない。でも、私がやりたいのはバンドなんだ。やっぱりあの人が憧れだから……」
湊音は間を埋めるように、コーヒーで喉を湿らせた。
グラスの下に敷いてあったコースターは、水滴が丸い染みを作っている。まるで彼女の心に抱えたもののように、暗い色をしていた。
「別に
「作詞作曲のこと? それこそバンドより向いてないよ。誰が歌っても納得できないんだ。自分で歌っても完成した気がしない」
「でも――」
「あの夜で最後にしようと思ったんだ。ライブハウスは噂が広まって、純粋に曲を聴いてくれる客はいなくなったし。それでも声をかけてくるバンドマンはいたから、せめて最後に思い出の場所で、と思って」
夕日が店内に差し込む。
赤く照らされた店内で、柚愛の言葉は静かに響く。
「それでも踏ん切りつかなくてさ。せめて作りかけてた曲が書き終わるまでって……。でも、それも終わったから」
柚愛は鞄から紙の束を取り出した。
差し出されたそれは五線譜だった。綴られている音符と歌詞。
「これは?」
「最後に作った曲。ちょうど持ってたからあげるよ」
譜面を湊音に手渡すと、優愛は憑き物が落ちたように微笑んだ。
河川敷でさくらは彼女の曲を優しい光だと言っていた。彼女が今浮かべているのは、そんな表情だった。
「チケット受け取れなかったお詫び。あの子に伝えておいて」
「おい、謝罪は自分の口で伝えなきゃ意味ないだろ」
「…………それは無理かな。合わす顔がない」
お代をテーブルに置いて、柚愛は立ち上がる。
「あの人と出会ったステージで、最後に聞いてくれたのがあんたたちで良かったと思う」
柚愛の背中が扉の外に消えていく。
軽い足取りだった。肩の重荷が取れたような――
譜面と一緒に取り残された湊音は虚しさに襲われた。時間が止まったような静けさが湊音を責める。
きっと彼女を止めるべきだった。彼女は諦めちゃいけない側の人間だ。
まるで、あいつと同じような――
湊音の胸の内を占めるのは、柚愛に負けず劣らず不器用な女の子だった。
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