M11 お礼
「ったく、とんだじゃじゃ馬娘め」
試奏用の椅子に腰かけた湊音は毒づいた。
カウンターに腰かけて足をぶらぶら揺らしていた一颯は、報告という名の愚痴を聞き終えると、くつくつと喉をならして笑う。
「湊音くん、人のこと言えないぜ」
「俺はあいつほど無鉄砲じゃない」
「たいてい本人に自覚はないものだよ」
湊音の小言を一蹴すると、一颯は音楽雑誌を開いた。確か今日発売のものだ。
他人の心労よりも、ドラム専門誌が大切らしい。恨みがましい視線を送るが、完敗だった。湊音が年下の女に勝てるわけがない。最初から不戦勝は決まっていた。
これからは愚痴を零す相手を考えよう。まず一颯には相談しない。果菫も宛にならない。さくらは問題の中心だし……。
思い浮かぶ順にふるいにかけていくが、数少ない交友関係の選別は三十秒もかからなかった。そして誰も残らない。
「よくわかりませんが、よろしいじゃありませんの」
ちょうど死角から聞こえた声に、湊音は身を乗り出して覗き込む。
風見楽器店に呼び出した張本人――紡満が屈託のない笑顔を浮かべて、仁王立ちしていた。
「お話を遮るのも忍びなかったので、待っておりましたの。盗み聞きして申し訳ございませんわ」
紡満と会話したのは、彼女をこの店に連れてきた以来だ。それから会話どころか、一対一で意思疎通はしていない。なぜなら湊音が紡満の連絡先を知らないからだ。
しかし、湊音は紡満から呼び出しを受けた。
突然非通知から電話がかかってきた、みたいなプライバシーのへったくれもないホラー展開――ではなく、一颯を介して伝言を受け取った。
あの日、一颯と交換したメッセージアプリのトーク画面は伝言ゲームの会場となっている。いっそ紡満と直接やり取りした方が早かったのだが、なんだか三人揃って面倒なやりとりが面白おかしくなってきたせいで、紡満の連絡先は知らないままだった。
「なにも邪魔するものがないのならば、気の向くまま行動するべきです。好きなことなら、なおさらですわ。さくらちゃんが満足するまで、自由にさせてあげるべきでしてよ」
キーボードを撫でながら、紡満は笑みを浮かべた。一颯は雑誌をめくる手を止めずに続ける。
「まあ湊音くんの言いたいこともわかるけどさ。もうだめだーって心折れる直前に、引き上げてくれる手を探してることだってあると思うぜ。それを知ってるから、その子は突っ走ってんだろ」
「あら。珍しく意見が合いますわね」
二人の達観した言葉に、湊音は押し黙る。遠回しに『さくらの邪魔をするな』責められた湊音は、決まりが悪くなった。
「……ところで、紡満の要件はなんだ?」
一呼吸おいて、話題をそらした。
本来の目的を聞かれた紡満は、待ってましたと言わんばかりに、手のひらを叩く。ぽんと、かわいらしい音が鳴った。
「ピアノの修理が完了したご報告ですわ」
声を弾ませた紡満は、端的に要件を述べる。
「わざわざ礼を言いに来てくれたのか」
「もちろんですわ」
予約表の希望日時は『できる限り早急に』で譲歩した紡満だったが、店主の剛二が修理に訪問したのは翌日のことだったらしい。
演奏する側に立って、楽器を一番に考える。剛二の人柄が表れた話だった。
「どうも経年劣化で響板が歪んでいたみたいですの。剛二様にはなんとお礼を申し上げればよいか……。とにかく、これで安心して弾けますわ」
「喜んでもらえて、何よりだよ。僕の仕事は楽器のお医者さんだからね」
落ち着いた声がゆったりと言葉を奏でた。店の奥から顔を出したのは、ちょうど話題にあがった人物――剛二だ。
四年の歳月で白髪が増え、心なしか目元のシワも増えたように見える。
穏やかな雰囲気はあの頃と変わらなかった。むしろ、年齢による篤実さのようなものが溢れている。
「以前と同じ音ではなくなってしまったけれど、今の音も大変魅力的ですわ」
「気に入ってもらえて良かった。とても愛されてきたピアノだと一目でわかったからね。そんなピアノに出会えて、調律師冥利につきるよ」
湊音に顔を向け、剛二は温和な笑顔をみせた。
「久しぶりだね、湊音くん」
「ご無沙汰しています」
「少し話をしたいんだが、いいかい?」
「話……ですか」
訝しげに湊音は呟いた。覚悟を決めなければならない。
緊張した面持ちの湊音に、剛二は久しぶりに会った近所の子供に話しかけるような優しい口調で続ける。
「雅楽代柚愛さんのことで、君に話があるんだ」
突然湧いて出た名前に湊音は驚いた。
「柚愛の……」
一拍おいて消えそうな声で呟くと、剛二は紡満に断りを入れる。
「湊音くんをお借りしてもいいかい?」
「もちろんですわ」
「すまないね」
紡満の承諾を得た剛二は手招きした。湊音はそれに従い、彼に続いて奥の作業スペースに入った。
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