M12 柚愛の過去

 覚悟していた話題に剛二は触れなかった。作業スペースを包む優しい雰囲気は、湊音が抱く罪悪感を忘れさせる。


「汚いところでごめんね。……って、君は何回か入ったことあったよね」


 作業台には表板が剥がされたコントラバスが置いてある。ちょうど修理していたのだろう。


 懐かしい気持ちになりながら部屋を見回していると、お茶の入ったグラスがテーブルに置かれた。剛二に促されるまま、木製の箱椅子に腰を落とす。

 グラスを傾けて喉を濡らした剛二は、前置きもほどほどに本題をぶつけた。


「表で君たちが話しているのを聞いてしまってね」

「柚愛を知っているんですか?」


 愚問だったが、他に切り出す言葉が見つからなかった。肯定の相槌が返ってくる。


「柚愛ちゃんと出会ったのは彼女が中学三年生の時。六年くらい前になるかな……」


 剛二は遠い目をして、過去をなつかしむように話し始めた。


「毎日学校終わりに遊びに来て、ベースを眺めてたんだよ」

「眺めるだけ、ですか?」

「中学生じゃバイトもできないだろう。一番安いベースも買えなかったのさ」


 安いものでも本体は一万円前後。そこにアンプやシールド、チューナーとつけていけば初期費用で二万くらいだ。中学生で楽器をやるなら、誰かから譲ってもらうしかないだろう。


「高校に入ってすぐ、バイト代を片手に駆け込んできたさ。毎日眺めていたベースを買っていったんだ。軽音部に入部したそうでね。ベースを担ぎながら表の道を登下校する笑顔を見ると、楽器屋の仕事を誇りに思えたな。楽器と人の橋渡しをするために、この仕事をしているんだ。ってね」


 果菫から聞いた雅楽代柚愛の噂とは異なった。慣れ合いを嫌う一匹狼というのが、彼女を知る人達の共通認識であり、湊音が抱いた彼女のイメージだ。


「俺の聞いた柚愛とは別人みたいです。孤独を好んで、人付き合いとか嫌いなバンドマンって聞きました」


 湊音が零した柚愛の人物像に、剛二は表情を曇らせる。


「柚愛ちゃんは一人が好きなわけじゃないよ。音楽にのめり込めばのめり込むほど、孤独になっていっただけなんだ」

「組んでいるバンドがいつも違うって話も聞きましたけど……」

「きっかけは高校の軽音部で組んだバンドだったんだよ。最初は楽しく練習していたみたいなんだ。でも一年も経たずに、彼女は部活を辞めてしまった」


 よくある話だ。

 軽音に関わらず――恋人ができただの、練習についていけなくなっただの――理由の大小にかかわらず、部活を辞めた人は少なくないだろう。

 年間の高校入学者数は300万人程度と聞いたことがある。それだけの人数がいれば、百人、二百人……千人以上は部活を辞めた人間がいたっておかしくはない。


 しかし、ピンとこなかった。不思議なのはそこじゃない。


「――じゃあなんで、柚愛はバンド続けてるんだ?」


 湊音の思考は、独り言として口から飛び出していた。

 矛盾している。続けたいのに部活を辞める。全く方程式が成り立たない。


「彼女が部活を辞めた理由は、本気で音楽がやりたかったからだよ」

「つまり柚愛はバンドでメジャーデビューしてやろうって野望があったのに、周りはファッション感覚で、方向性の違いを感じて脱退。ってとこですか」


 湊音の噛み砕きすぎた例えに、剛二は乾いた笑いを零した。


「野望か。野心はなかっただろうけど、望みは持っていただろうね。

 柚愛ちゃん、メジャーシーンに食い込むようなバンドが組みたかったんだよ。ベースの傍ら、作詞作曲を勉強して、価値観のあう仲間を探していた。

 作った曲を聞かせてもらったことがあるが、あの子の作る曲はセンスがいい。ベースの技術があって作詞作曲もできる。彼女を引き入れたいってバンドの話を聞くようになるまでに、時間はかからなかったな」


 クオリティの高いオリジナル曲が演奏できるのは、バンドにとって十分すぎるメリットだ。引く手あまたになるのも、想像に難くない。

 湊音が口を挟む前に、剛二は言葉を続けた。


「だが、ほどなくして、真逆の噂を聞くようになったんだ。柚愛ちゃんの加入したバンドは、すぐに解散するってね」


 剛二は淡々と言った。湊音は言葉の意味を噛みしめる。


 短期間で繰り返す解散。理由は聞かなくてもわかった。部活を辞めた時と同じだろう。

 ようやく雅楽代柚愛の片鱗を理解できた気がする。と同時に、あのベースボーカルが柚愛だと確信した。


 普段からあの手この手の口説き文句で勧誘されていたなら、近づいてくる相手に警戒してもおかしくはない。

 自分の作った曲の価値が、バンドマンを引き寄せるだけだと思っていたなら、さくらの誉め言葉を素直に受け取らないのも納得できる。


「バンドは一人じゃできないからって、頑張っていたんだよ。

 シンガーソングライターでもいいんじゃないかいって勧めたこともあったけど、否定されてしまったな。理由はわからないが、よほどバンドに強い思い入れがあるんだろう」

「思い入れ……ですか」

「音楽は音を楽しむものなんだけどね」


 剛二は寂しそうに目を細めると、最後にそう付け加えた。

 柚愛は音楽をやめると言っていた。楽しむことを忘れてしまったのだろうか。それとも、仲間を探すことに疲れてしまったのだろうか。


「本当に音楽を辞めたいって思っているんでしょうか。俺には辞めたいと思っているようには思えないです。でも他人が彼女の人生に口を出すのは違うから……」

「そうだね。彼女の選択を、周りがとやかく言うものじゃない」


 同意が得られたことで、ほっと胸をなでおろす。

 それでいて、少し寂しさを覚えた。湊音の経験からだろうか。


 ――本当は湊音も誰かに引き留めてほしかったのか。


「でも、彼女たちが選べる道を一つでも多く用意してあげるのは、大人の役目なんじゃないかな。僕はそう思うよ」


 湊音が顔をあげると、剛二は席を立った。


「何やら楽しそうな音が聞こえるね」


 我が子のいたずらを見て見ぬふりをする父親のように、しーっと人指し指を口元に寄せた剛二は、静かに戸を開いた。


 電子音のトロンボーンが軽快にクラシックを奏でている。紡満だと直感でわかった。

 音だけで奏者がわかる演奏をする彼女は、才能のあるピアニストだ。改めて実感する。


「さて、戻ろうか」


 剛二と並んで、湊音は店頭に向かう。

 楽器の立ち並ぶ販売スペースで最初に目に入ったのは、カウンターの一颯だった。頬杖をつきながら、むっとした表情で紡満を見つめている。


 視線の先にいた紡満は、演奏をぴたりと止めた。湊音の顔を見ると、顔を輝かせる。


「湊音! このキーボードすごいんですのよ。録音して音が作れるそうなの!!」


 嬉々として声をあげた紡満に、一颯は目を細める。


「毎日毎日、弾きに来やがって。駅の通路に置いてあるピアノじゃねえんだぞ」


 一颯の意見はごもっともだった。店員からすれば購入もせず、店頭で弾かれるのはさぞかし困るだろう。


「そんなに気にいったなら、家で好きなだけ弾けばいいじゃんかよ」


 非難の矛を向けられた紡満は気にも留めず、シンセに夢中のありさまだ。まさに馬の耳に念仏。もちろん馬は紡満で僧は一颯を指す。


「まあまあ。楽器の魅力に気づいてもらえるなんて、ありがたいことだよ」

「おじさん! あ~もう、まったく迷惑な客だぜ」


 剛二がやれやれとなだめるが、一颯は不服そうに声をあげる。


「電子ピアノですら、お父様に怒られてしまいますの。私が自由にキーボードを弾けるのはこの店だけですわ」

「しっかたねえなぁ。おじさんの目が黒いうちは、客寄せパンダとして演奏させてやるよ」


 客寄せパンダの意味を知らないらしく、紡満はあっけらかんとしている。どうやら誉め言葉と受け取ったらしい。意気揚々とスキップしながら、鍵盤の前に戻っていった。

 一方、一颯はスピーカーで流して、商店街のBGMにすると言い出す始末だ。


 喧嘩するほど仲がいい――とはいうものの、この二人が仲良くなるのはいつになるだろうか。

 湊音と剛二は顔を見合わせ、苦笑した。

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