M10 チケット
あれから毎朝、さくらは河川敷に足を運んでいる。もちろん湊音を引き連れて。
ベースボーカルは不定期に現れるが、毎回眉をしかめては帰っていく。
――何度言われたって、私はもう音楽をやらないって決めた。
毎度聞かされる言葉だったが、さくらは納得できていないらしい。今日もテーブルに突っ伏して、んーんーうなっている。
「どうしたらいいんでしょうか」
「どうしたらいいも何も」
ベースボーカルを見つければ試合終了じゃなかったのか。
湊音からベースボーカルへの好感度は、氷点下を振り切っている。足しげく河川敷に通う度、摂氏一度ずつ下がり、初夏にも関わらず最低気温を更新中だ。
大人げない本音を言えば、ベースボーカルがムカつく。明日からきれいさっぱり忘れて、転職活動に従事したいと思うほどだ。
それでも毎日付き合っているのは、さくらが気になっているからだ。色恋のそれではない。世間一般に『心配』と呼ばれるそれだ。
自覚は芽生えていたが、頑なに認めていない感情だった。素直じゃない湊音には、無理矢理付き合わされているくらいがちょうど良かった。おかげで転職エージェントにすら登録できていないのだが――
「じゃあさ。さくらちゃんのライブを見て、やっぱり音楽やりたいって思わせる作戦! な~んてどうっすか」
カウンターから身を乗り出した果菫は、にまにまと笑みを浮かべながら提案する。
「ベストタイミングなことに、後輩主催のライブがあるんすけど。一組出演キャンセルでて困ってるらしいの。時間がないから会場費タダ、手売りノルマなし、出てくれたらなんでもオッケーっていう超優良物件なんだけど」
「数合わせのダシにさくらを使うなよ」
「いやいや、湊音さんイチオシの歌唱力だったら、後輩君も喜ぶだろうし」
「やらせてください!」
セールスのような勧誘を、さくらは二つ返事で承諾する。
「もしお前がライブに出たって、あいつが来るかわかんないんだぞ。そもそも話すらまともに取り合ってもらえないのに、誘うとか無理だろ」
湊音は思い直すよう説得する。しかし、さくらはきっぱりと言い切った。
「湊音さんは私に諦めないほうがいいって、背中を押してくれましたよね。あの言葉で勇気が湧いたんです。ベースボーカルさんの歌も、同じくらい私に勇気をくれて……。だから私の歌でお礼がしたいんです。ベースボーカルさんの背中を押したいんです」
ベースボーカルは音楽を続けたがっている――さくらはそう思っているらしい。
確かに彼女の言動は不自然な部分が多かった。湊音たちを煙たがるのに、河川敷にやってきたり。音楽をやめると言っているのに、作詞作曲を続けていたり。ちぐはぐなのだ。
だが、もしも全てさくらの思い過ごしで、ベースボーカルが本心から音楽をやめようと考えていたとしたら。彼女を思いとどまらせるのは、正しいことなのだろうか。
「お前は何があっても夢を叶えたいって気持ちがあったから背中を押したんだ。でもな、世の中にはどうしたって解決しない事情で、道を外れざるを得ない場合もある。そこで境界線超えたら、ただの自己満足だ」
例えば金銭、あるいは環境、身体面、精神面――音楽の道を離れる要因なんて、星の数ほどある。そんな時、外野が引き留めるのは余計なお世話だ。
「ここでベースボーカルさんの気持ちに刺さる歌が歌えなかったら、私は今まで私に戻っちゃうんです。自己満足かもしれないけど、私は誰かのために歌を歌いたいんです」
三週間と少し。短い付き合いの中で、湊音はさくらを心から応援していた。いや、あの歌唱音源を聞いた日からだ。
『一生懸命』という月並みな言葉はこの子のためにあるんじゃないかと思うくらい、まっすぐなさくらの力になりたいと思っていた。
時間は無限じゃないし、夢を叶えるために残されている時間はそう長くはない。他人よりも自分を優先してほしい。湊音の本心だった。
「もし、そのライブでダメだったら、ベースボーカルの改心なんておこがましいことは諦めろ。ちゃんと夢のために時間をつかうんだ」
素直になれない湊音ができる、精一杯のアドバイスだった。
結局、湊音はただの知り合いで、彼女の決断を引き止める資格はない。
「そもそも音楽なんてただの自己満足っすよ。好き勝手やって、共感してくれる少数が見つかれば儲けもんってこと。さくらちゃんにとって、一回ステージに立つのはいい経験になるんじゃないかな」
諭すような果菫の声が、静かな店内に響いた。
ライブ出演が決まってからも、さくらは変わらず河川敷に立ち寄っていた。攻防の末、ベースボーカルと遭遇するのは午前4時前。深夜帯に片足を突っ込んでいた。
天気は曇りで月明かりすら差さない夜だった。黒い川を挟んだ道は、とにかく暗い。湊音たちを照らすのは、ぽつりぽつりと等間隔に照らす電灯だけだ。
ベースボーカルは足音で、湊音たちの来訪に気づいたらしい。
「またか」
相変わらず面倒な奴らがきた、といった声音だ。
しかし、湊音たちのことを煙たがるわりに、明け方の作曲は続いている。
「今日はお願いがあるんです。私のライブに来てもらえませんか」
果菫から受け取ったばかりのチケット。大切なそれを、さくらは真っ直ぐに差し出した。
案の定ベースボーカルは受け取らない。だが、さくらも譲らなかった。押し問答が続く。
「初めてのライブなんです」
「悪いけど行くつもりはない」
「お願いします」
「しつこいな」
鬱陶しそうに払った腕が、さくらの手に当たる。チケットはさくらの手を離れ、宙を舞った。
意図しない事故だったのだろう。わずかばかりの間、驚きと焦りが混ざったようなベースボーカルの目が、チケットを追いかけた。
その表情は一瞬で、すぐにいつものポーカーフェイスに戻ると、棘のある声で吐き捨てる。
「これでわかっただろ。私はあんたが思ってるようなミュージシャンじゃない」
ポーカーフェイスは続かなかった。彼女は気づいていないだろうが、途中から苦しそうに表情を歪ませていた。湊音たちに向けられたはずの言葉は、彼女が自分に言い聞かせているようだった。
絞り出すような声で、ベースボーカルは告げる。
「諦めて」
「諦めません。ベースボーカルさんを救えないと、私がなりたいアイドルにはなれないからっ」
さくらは川に向かって一直線に走り出す。
「さくらっ、待て――」
暗い川に飛び込もうとする腕を、湊音はすれ違いざま掴んだ。もつれた二人は地面に転がる。
夏とはいえ、早朝の冷たい川だ。ライブ前に体調崩したらどうすんだ。
何より暗くて先の見えない状況では危険すぎる。
もっと考えてから動け。
次々に忠告が浮かんだ。声を荒げそうになるのを、ぐっと抑える。
「でも、チケットが――」
「ちくしょう」
ウインドブレーカーを脱ぎ捨てて、湊音は川の中に飛び込んだ。平常時なら深さもわからない水に入るのは勇気がいっただろう。しかし、湊音にためらいはなかった。それだけ冷静さを失っていたのだ。
さくらの覚悟も思いも、全て水に流されてしまう。そんなの許せないに決まっている。
悔しさを噛みしめながら、じゃぼじゃぼ音を立てて
緩やかだが遮るもののない水流は、とっくの昔にチケットを下流へと運んでしまっただろう。理解していても、簡単には諦めがつかなかった。
「湊音さん。危ないです。帰ってきてください」
さくらの言葉をきっかけに、湊音は川から這い出た。水位は腰までだったが、跳ねた水で胸元までぐっしょりと濡れている。
Tシャツを絞りながら、湊音は走り去っていくベースボーカルの背中を見つめていた。苦し気な表情が忘れられない。さくらの止まらない謝罪は耳に入ってこなかった。
その日を境に、ベースボーカルが河川敷に姿を現すことはなくなった。
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