M9 ベースボーカル
一晩明けて、湊音とさくらは河川敷にいた。
七月といえど、日の出ていない時刻は肌寒く感じる。静かに澄んだ空気は煩雑な日常から切り離された世界だった。
寝ぼけまなこをこすって、湊音はあくびを噛み殺す。さくらは眠気を感じさせない瞳で、湊音を見上げた。
「寝不足ですか?」
現在、時刻は午前五時前。会社員をしていた時でも、あと一時間は寝れた。
「なかなか見つかりませんね」
犬の散歩やランニングを嗜む人とまばらにすれ違うが、ベースボーカルらしき人物は見かけない。
スマホを開いて、湊音は写メを確認する。常連客がナプキンに走り書きした地図の写真だ。
最低限の情報が描かれた地図を参照すると、目的の場所を示す星印は橋を二つ越えた先に記されている。
「目撃場所は少し先みたいだぞ」
「そこまで行ってみましょう!」
今にも季節外れの冬眠に落ちそうな湊音は、さくらとの温度差に風邪を引きそうだった。
ウインドブレーカーでも羽織ってこれば良かったと後悔する。
二人が歩く川は、にゃんにゃん亭から五分歩いたところにある。幅十メートル程度の川だ。
緑も多く住宅街に挟まれていることから、地域の定番散歩コースになっている。多摩川から分岐した河川は、駅まで続き、また多摩川につながる。少なくとも全長二十キロはあるだろう。
舗装されたアスファルトを踏みしめること――だいたい十五分。
さくらが弾かれたように声をあげた。
「湊音さん!」
促されるまま耳をすませると、風にのってアコギの伴奏と歌が飛んできた。あの夜と同じ歌声だ。
「やっと見つかった」
ベースボーカルはフレーズを口ずさむと、違うメロディーを組み合わせる。しっくりこなかったのか、同じ作業を何度も何度も繰り返していた。
――作詞作曲をするために河川敷に来ている?
仮説が頭を過る。抱いた疑問の裏付けとして、彼女の行動は十分すぎた。
答え合わせが終わり、湊音はすっきりとした心持ちを覚える。ゴールに向かって、二人の足取りも軽くなっていった。
ベースボーカルとさくらを引き合わせるだけで、長かった茶番から解放される。解放感から湊音の眠気も吹き飛んだ。
指示を仰ぐように仰ぎ見たさくらの背中を、湊音は文字通り後押しする。
「あの、すみません」
さくらの呼びかけに、女はギターケースを閉じながら振り向いた。
朝日が差し込み、顔がはっきりわかる。切れ長の冷たい瞳に、まっすぐな黒の髪。表情は能面のように感情がない。
さくらはファイティングポーズを取るように、胸の前で小さな拳を握りしめた。
「ファンです!!」
第一声は予想の斜め上を飛んだ。湊音は耳を疑う。
確かにファンどころか、ストーカーまがいの状況ではあるのだが――
それにしても第一声が、ファンですって……。
心の中で突っ込みを入れる湊音。一方、盛大に呆れられてると知らないさくらは、感激の表情を浮かべている。
そんな二人を見比べたベースボーカルは、湊音以上に淡泊な口調で言った。
「あっそ、ありがと」
「あなたが路上ライブで歌っている姿を見て、ファンになりました」
彼女はつまらないものでも見るように、蔑んだ目を向ける。
「すごくパワーをもらって、私もあんな歌が歌いたいって思ったんです」
「ふーん。ところで、あんたたちもバンドの勧誘?」
「ちっ、違います!」
さくらは即座に否定した。そんなおこがましいこと言えるわけないと、ぶんぶん首を振る。
さくらにとってベースボーカルと話せたことは、遥か上空で輝く月と会話できたくらい嬉しいのだろう。あの夜から、憧れの存在になっていたのだから。
「私アイドルになりたいんです。それでベースボーカルさんの歌みたいな、人に元気を与えられる曲が歌いたくて」
「曲を歌わせてくれってこと?」
「そうじゃなくて。私はただお礼が言いたくて」
せっかく会えたんだから、「あなたの曲ください」くらい言っても、バチは当たらないように思う。変なところで謙虚なさくらに、湊音はもどかしさを覚えた。
「それだけ?」
「えっと、はい……」
圧に押され気味のさくらが頷くと、用は済んだとばかりにベースボーカルは踵を返す。
「どうも。さようなら」
社交辞令の一つもないベースボーカルの態度。湊音の許容値は限界を超えた。
あくまで成り行きを見守るつもりだった湊音だが、『不愉快』と名付けられた感情が口から溢れ出す。
「勝手に押しかけたことは謝る」
有り体に言えば、湊音は怒っていた。誰もが身じろいぐほどの凍てついた視線も気にならない程に。
駆け回った日々が走馬灯のように流れていく。さくらのワガママにつきあわされ、ラーメンとタバコに待てをかけられ、クドクド説教され、楽器屋をはしごし、迷子を届け、早朝に散歩付き合い……。浮かんだ記憶の数だけ、苛立ちが募った。
「こいつはあんたの歌に惚れて、話しがしたい一心で必死に探し回って、やっと会えたんだぞ」
乱暴に言い切った湊音に、ベースボーカルは苦虫を嚙み潰したような顔をする。
「あなたたちが私に何を期待しているのかわからないけど、もうバンド活動はしない」
ベースボーカルの返事は噛み合わないものだった。いや、最初から彼女との会話は歯車がズレている。
そもそも『曲が好きだ』と言っただけで、どうしてバンドの勧誘や曲を譲ってくれって話になるんだ。
「ちょっと待てよ。意味がわかんないんだけど」
冷静さを取り戻し始めた湊音は、ベースボーカルの真意を探る。が、時すでに遅しだった。
「今後ベースを弾くつもりはないし、曲を作る気もない。残念だけどあんたたちの期待には添えない」
ギターケースを担ぐと、ベースボーカルは背を向けて拒絶の意を示す。自嘲気味な声が耳にこびりついた。
湊音は揺れる長髪を目で追いながら、荒れた心を落ち着かせる。すっと息を吐いて、結論を出す。
――気分が悪くなるヤツだ。
それ以上でも、それ以下でもない。湊音が下した、ベースボーカルの印象だった。
「大丈夫か?」
冷たい言葉をかけられたさくらは、放心状態で動きを止めていた。落ち込むのも無理はない。
さすがの湊音も、今回ばかりは同情した。慰めの言葉を選んでいると、さくらは小さな声で呟く。
「おかしいんです」
「は?」
ベースボーカルに負けず劣らずの噛み合わない返答だった。
「だから、おかしいんです」
明確に伝える意思をもって、再度さくらは宣告した。湊音の聞き間違いではないと、一言一句力強く紡がれる。
さくらへの同情は掻き消えた。捻りだした慰めの言葉も吹っ飛ぶ。ピクリとこめかみが跳ねるのを感じた。
「何がおかしいんだよ。俺ははらわた煮えくり返ってるけど?」
「ベースボーカルさんの曲はあったかい景色が見えるんです。あの夜の曲は私たちに届けたいって橋がかかってたし、さっきのフレーズだって優しい光が差してたんです」
何言ってんだ。
わけがわからない。景色……?
湊音が聞き返す前に、さくらはびしっと人差し指を突き出した。ベースボーカルの残像を指しながら、ホームズがワトソンに説明するかの如く断言する。
「だから、さっきのベースボーカルさんの言葉は嘘です」
湊音は長い息を吐いた。
さくらとの付き合いもようやく終わるかと思ったが、まだまだ続くようだ。
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