M8 杏仁豆腐
にゃんにゃん亭は昨今珍しい、『喫煙者に優しい店』だ。
店内には湊音以外の客はおらず、見慣れた光景が広がっている。
周囲を気にする必要はない。湊音は心置きなくタバコを取り出した。
百均で買ったシンプルなライターで着火すると、白い煙が霧散する。
何も言わず、果菫は机上に灰皿を置いた。片手をあげると、彼女は向かいのソファに座る。にっこりと笑顔を浮かべる果菫を一瞥した湊音は、色の変わったフィルターの先端を、灰皿に落とす――
「転職活動はいかがっすか」
手元が狂った。危うく隣の深皿に、吸殻を零しそうになる。
タバコに手をつける前、ガラスの深皿には白く柔らかい寒天がのっていた。業務用スーパーで購入し、小綺麗な皿にのせただけ、手間いらずコスパ最強メニュー。
湊音の胃に消えた杏仁豆腐は、さくらのために用意した新商品だそうだ。
「うまくいってるように見えるか?」
「愚問だったね」
終身雇用は古い、今は転職してナンボ、なんて言われているが、定年まで働くに越したことはない。古臭い体育会系の会社は嫌だが、不安定なベンチャー企業も嫌だ。決してワガママではない。『可もなく不可もなく』は湊音のモットーだ。
ネットの海に転がる当たり障りのない記事を眺めては、明日でいいかと画面を閉じる。そんな一日が塵積もって、気づけば二週間になっていた。
けたたましい音を立てて、ドアベルが来客を告げる。
湊音が肩越しに振り向くと、キャンパストートをさげたさくらが肩を揺らしていた。
「お待たせしました」
「そんなに慌てなくても、だれも逃げないっすよ」
「居ても立っても居られなくて」
有益な情報が入ったと連絡を受けたさくらが、猪突猛進駆け込んでくるのはわかりきっていた。
息を切らしたさくらがテーブルにたどり着く前に、半分残った吸殻を押し付ける。
「お腹空いたっしょ。今、ラーメン作るから待ってて」
デザート容器と灰皿を手に取ると、果菫は厨房へ吸い込まれた。
「ベースボーカルさんの居場所がわかったって、本当ですか?」
「そこまで期待されると、ちょっと話づらいんすけどね。この辺では有名人みたいっすよ」
さくら重い期待を一身に背負い、カウンターキッチンに立つ果菫は困ったように笑った。軽音サークルやにゃんにゃん亭の客、持ちうる情報網を全て駆使してくれたらしい。
「どこのライブハウスの店長も、みんな知ってたよ」
「店長……? 果菫は会ったことないのか」
「人付き合いいい方じゃないすからねえ。たぶん同じライブに出演してたとしても、絡んだことないんだろうなあ」
果菫の性格はドライだが、対人関係においては社交的だ。共演者にはしっかりと挨拶し、打ち上げにもしっかり参加する。ライブ一回限りの短い関係だったとしても、人付き合い含め適切な塩梅で対応する。だからサポートという放浪者でも、果菫は信頼を得てきた。
この学生街で四年間ライブを続けてきた果菫が、雅楽代柚愛と一切関わりを持っていないこと自体、釈然としない。
「学生とは思えないくらい演奏技術が突出してて、一度聴いたら忘れられない演奏をするって」
「バンドメンバーは見つからなかったのか?」
「友達どころか知り合いも見つからなかったっす。同じイベントに出演したって子はいたんだけどね~。ツンツンオーラ全開で話しかけれなかったみたい。打ち上げにも来なかったってさ」
付き合いの悪い人物だったのであれば、顔が広い果菫が面識を持っていなくてもおかしくない。湊音は納得した。
「おまけに都市伝説みたいなのも、聞いちゃったんだけど」
「都市伝説――ですか?」
「出演する度に組んでるバンドが違うらしいんすよ。それこそ週一ペースで変わるとか。それで、『いわくつきのバンドマン』って呼ばれてるらしいよ」
そこまで言ってはっとした果菫は、麺を切りながら、眉唾程度の噂だとフォローを入れた。湊音も恐る恐る気遣いの視線を向けるが、余計なお世話だったようだ。
そもそも噂が耳に入っていない様子のさくらは、満面の笑みを浮かべる。勢いよくテーブルに上半身を乗り上げた。
「じゃあ、ライブハウスに行けば会えるんですね」
「それが……、ここ二、三か月はライブハウスに顔だしてないらしくて」
さくらは再びソファに沈んだ。どんよりと効果音がつくほどの落ち込みようだ。
どんぶりを両手に持った果菫は、さくらの前にラーメンを置くと、慰めの言葉をかける。
「そんな落ち込まないで。柚愛ちゃんかわかんないんすけど、常連さんが河川敷でそれっぽい子をよく見かけるって」
「店の裏手にあるとこか」
「そうそう」
果菫は三つ目のラーメンを運ぶと、さくらの隣に座る。
「一昨日来たお客さんの趣味が早朝ランニングらしいんすけど、弾き語りする女の子を見かけるって」
下手な噂話より有益な情報だった。無為にベンチで時間を潰すよりも確実だ。
弾き語りということはアコースティックギターだろう。風見楽器店で聞き込みをした時、『アコギもメンテに持ってくる』と一颯は言っていた。
押し黙った湊音を見つめて、果菫は自信なさげに付け加える。
「ちょっと決定打には欠けるかな?」
「いや、可能性は高いと思う」
ベースボーカルの情報を追い始めて一週間弱。とんとん拍子で進む捜索は、やっと終点が見えてきた。
湊音はさくらに視線を向ける。あとはさくらの意志次第だ。
「どうする?」
顔を上げたさくらの目は、あの夜のように輝いている。
「会いたいです」
さくらは即答した。聞いたことがバカらしく思えるほど潔い返事に、湊音は喉を鳴らして笑う。
「決まりだな」
さくらは首がねじ切れる勢いで、果菫に向き直った。
「果菫さん。もっと詳しく教えてください」
「まずは腹ごしらえにしましょ。ラーメン伸びちゃうっすよ」
苦笑する果菫になだめられて、三人で手をあわせる。
湊音のラーメンは麺増量だったようで、一杯で満腹になった。よく見ると、さくらの麺には煮卵とチャーシューが追加されている。こういうサービスをしてくれるから、つい贔屓にしてしまう。
だから食後にでてきた杏仁豆腐にいたく感動した様子のさくらに、原価20円のデザートとは口が裂けても言えなかった。
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