M6 楽器屋のピアニスト
駅ビルの七階にある楽器屋。ワンフロアの半分が販売スペース、もう半分が音楽教室になっている大手楽器チェーンのテナントに湊音はいた。
目的は言わずもがな、ベースボーカルの情報を探すために。
チェーン店を優先に回っているが、どこも空振りに終わった。そしてそれは、この店舗も例外ではなかったようだ。
「知らないなあ」
ベースコーナーの担当者は、湊音の質問に困惑の色を浮かべながら答えた。
駅前広場で路上ライブをしていた、黒髪のベースボーカルを探している――と突然聞かれても困るだろう。時間を取らせてしまったことを、湊音は申し訳なく思った。
「そうですか……」
「力になれなくてすまないね」
「いえ、ありがとうございます」
店員に軽く礼を告げた湊音は、とぼとぼ歩き出す。
近隣の大型店舗は制覇してしまった。肩を落とした湊音は、戦法を変えて個人経営の店に攻めることにする。
ちょうど近場で知り合いが経営している店があった。少々気は進まなかったが、悠長なことは言っていられない。時間がかかればかかるだけ、さくらが暴走する可能性が上がる。
散々振り回された湊音は、ステージを駆け回る小さな猛獣の姿を思い出した。
書類審査で目をつけていた応募者と電車で乗り合わせた偶然が、楽器店を梯子してバンドマンを探すことに繋がるなんて、誰が想像できただろうか。つくづく女に頭が上がらない性格を後悔する。
――ベースボーカルを見つけるまでだ。ベースボーカルを見つけたら、きっぱり縁を切ってやる――
強い誓いを立て、階下に繋がるエスカレーターに歩を進める。
ふいに軽快なメロディーが耳に入ると、湊音の足を引き止めた。
聞き覚えのある曲だが、ピンとこない。数十秒かけて思い当たったのは、ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」だった。
思い出すのに時間がかかったのは、湊音の知識が薄かったからではない。ファミコンのような電子音で奏でられていたからだ。
方向を変えた足先は、吸い込まれるようにキーボードコーナーへ向かう。こっそり覗き込むと、小学生が饒舌にクラシックを奏でている。
一曲弾き終えたと思えば、ベース、クラリネット、トランペット、木琴と、次から次に音色を取っ替え引っ替えして、無邪気に鍵盤を弾く。
三十分ほどリサイタルを楽しむと、満足したのか少女は鍵盤から指を離した。楽しませてもらった感謝を拍手にのせると、彼女は照れたようにはにかんだ。
「ご清聴ありがとうございました」
「ピアニストなのか?」
「たしなむ程度ですわ」
白いワンピースを着た少女は、ゆるくウエーブのかかった髪を揺らす。いかにも良家のお嬢様といった印象だ。
愛し気に鍵盤をなぞる。所作ひとつひとつから、音楽を愛する気持ちが伝わってきた。
「話には聞いておりましたが、とても面白いですわね。七色の音がでるなんて素敵ですわ」
「八十八鍵のバリエーションが、ボタンの数だけ変わるからな」
「あら、よくご存知ですのね」
彼女は感嘆の声をあげた。
首のゆるんだTシャツとジーンズ。締まりがない恰好の男に、音楽の知識があるとは思わなかったのだろう。
「時々、弾きにくるのか?」
「今日は要件が……、あっ!」
「どうしたんだ」
「ピアノの調律をお願いしたいのだけれど」
先の会話で湊音を店員だと思ったらしい。
一般客だと伝えると、おつかいが失敗した子供のように目を潤ませた。
「お父さんとお母さんはどこだ? 初めてのおつかいか?」
「失礼な。
頬を膨らませると、更に小学生のように見える。
仕草が子供っぽいのだが、と口を滑らせそうになり、湊音は慌てて口を縫った。
「私は
「湊音。鳴海湊音だ」
少女――いや、レディは手を差し出す。
ぎゅっ。
彼女の手のひらに、湊音は手のひらを重ねた。
「何をしていますの?」
「握手」
「ふざけてますの?」
理解できないとでも言いたげな顔で、紡満は下から覗き込んだ。
その顔をしたいのはこっちだ。
頭を抱えた湊音の行動を更に勘違いしたお嬢様は、子供に諭すようにはっきり告げた。
「店員のところに、案内してほしいのだけれど」
つまり、エスコートしろという意味だったらしい。残念ながら、湊音に社交界の知識などない。
「それで何が欲しいんだ?」
「買い物ではありませんわ。ピアノの調律をお願いしようと思いまして」
詳しい話を聞くと、愛用しているピアノの調律がすぐに狂うのだと紡満は話した。
不調は一年ほど続いているが、一度調律すれば二か月程度はもつので、その場しのぎで依頼に来たそうだ。
「本来ならお父様の秘書が対応するのですが、会社の繁忙期で時間が取れないそうなの」
「そのピアノ、どれくらい使われてるかわかるか?」
「母が生まれた時に買ったと聞きましたわ。四十年弱でしょうね」
ピアノの寿命は六十年ほどだが、早ければ三、四十年で買い替えのタイミングを促す職人もいると聞く。
「買い替えたりはしないのか?」
「どうにも今のピアノから、乗り換える気になれないんですの」
調律しても原因が見つからなければ、今後も困るだろう。何よりこれから向かう店は、紡満の需要にマッチしている。
目的地は同じなのだから、彼女が同行したって湊音に不利益はないだろう。
「腕のいい調律師を知っているんだ。今からその店に行くから、一緒に行くか」
「まあ、素敵なご提案ですわね。ぜひご一緒させてくださいな」
もう一度、紡満は手を差し出した。
湊音は少し考えると、子供と歩くときのつなぎ方をした。
「一般庶民がエスコートする時は、こうやって手をつなぐんだ」
「あら、そうでしたの。それは失礼」
どうやら外見だけでなく、中身も小学生だ。
エスカレーターを下っていると、壁に設置された鏡が目に入る。反射する二人の姿は、親子か誘拐犯のどちらかだ。
職務質問されたら、なんて答えればいいんだ――必死に言い訳を考えながら歩くが、湊音の懸念が紡満に伝わることはない。
軽率に彼女を誘った過去の自分を恨む。湊音の頭二つ小さい紡満が、鉄道会社運営ゲームの貧乏神に見えてきた。
「なんでキーボード弾いてたんだ」
優雅にスカートの裾を翻す紡満に、湊音は取り繕った質問を投げた。
無言だと怪しまれる――と、女児を誘拐する犯罪者の思考回路に陥った湊音が、必死で絞り出した奥の手だった。
楽器屋まで間がもてば何でもいい。とにかく浮かんだ無難な質問に、紡満はすんなりと回答を告げる。
「店員が声をかけてくるのを待っていたの」
「え?」
「やはり予約していくべきでしたわ」
自分から声をかけるという選択肢は、もとより彼女の中にはなかったようだ。
「困っていたら、目の前に鍵盤があったので遊んでみたの」
「そうか。遊んでみたのか……」
彼女を異世界人か何かだと思うことにした。そうでもしないと、湊音の庶民的感性では理解できない。
「
紡満はクリーム色の看板に書かれた、黒い文字を読み上げる。
「よく読めたな」
つないだ手を離し、紡満の頭を撫でてやる。少し嬉しそうに頬を染めた紡満は、すぐに「子ども扱いはやめなさい!」とキンキン声が響かせた。
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