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 にゃんにゃん亭に戻ってきた湊音を、果菫は笑顔で出迎える。背後のさくらに気づくと、元気よく来店の口上を述べた。


「いらっしゃいませ。にゃんにゃん亭にようこそ」

「……え?」


 湊音は訝しげに聞き返した。歓迎の言葉をかけられたのが、初めてだったからだ。


 果菫はニコニコしながら、テーブル席にお冷を二つ置いた。

 聞こえなかったのか、それとも聞こえたが無視しているのか。判別できなかったが――果菫の性格上、確実に後者だろう。


 六人掛けのテーブルは、二人で座るには十分すぎるほど広い。カウンターにしか座ったことがない湊音にとって、テーブル席からの景色は新鮮だった。


「注文はいかがしますか」


 またもや聞きなれない言葉に耳を疑うが、ここは湊音の家のリビングではない。さくらがいる以上、飲食店として最低限の接客は行われる。


 さくらは壁に貼りだされたメニューに、目を泳がせる。

 その間を埋めるように、湊音は予定調和の注文を告げた。


「俺はラーメン」

「じゃあ、わたしは天津飯ひとつで」


 さくらの注文は、湊音の興味をそそった。

 なぜなら、ラーメン以外のメニューを注文したことがなかったからだ。正確には、ラーメン以外見たことがない。湊音に限らず、この店の客は必ずラーメンを食べている。


「天津飯は売り切れなんすよ~。ごめんね」


 果菫は慣れたように言う。

 注文したさくらよりも、湊音ががっかりする。とんちんかんな反応だ。


「じゃああんかけ焼きそばを」

「あんかけ焼きそばも売り切れなの。ってか、この店にラーメン以外提供できるものはないっす」

「なんで注文聞いたんだよ」


 胸を張って返答する果菫だが、それは中華料理屋としてどうなんだ。


 ラーメンを注文する客しかいなかったのも、強制的にラーメンを注文させられていたのだろう。どうりで、客足が減っていく一方だ。

 そもそも、なぜ注文できないメニューが壁に貼ってある。ツッコミどころが多すぎた。


 果菫は答え合わせをすることなく、無人の厨房にオーダーを通す。無論ラーメン二つで、と。


「面白いお店ですね」

「なんかごめん」


 さくらですら、言葉を失っている。この店が――いや、この店の店員が、普通という基準で計れるわけがない。


 厨房からスープの香りが漂ってきた。どれだけ呆れ返っていようが、本能は忠実だ。急に湊音の空腹感が増す。

 すっかり頭から抜け落ちていたが、湊音は昼食を一口しか食べていないのだ。やっとラーメンにありつける喜びに、喉を鳴らす。


 なんだかんだ言って、この店のラーメンはうまい。いっそ中華料理屋からラーメン屋に店を変えればいいと提言したい。実際――中華料理屋の皮を被った、ラーメン屋――以外の何物でもないのだが。


「おまちどうさま」


 目の前にどんぶりが置かれた。軽く手を合わせると、湊音は麺を啜り始める。

 さくらも気に入ったようで、頬に手を当てながら味を称賛した。


 どんぶりが空になると、果菫はお盆を手にして、テーブルの横に立った。水を注ぎ足すと、さくらに親指を突き立てる。


「そのバンドのこと、私も聞いてみるっすよ」

「本当ですか!?」

「この辺りなら、そこそこ顔が効くんす」


 客となじみの果菫なら、情報が手に入りやすい。彼女に協力してもらうのが得策だろう。


「それより、さくらちゃん。歌が上手って聞いたんすけど」

「湊音さんは褒めてくれるけど、全然まだまだで……」

「でも、アイドル志望なんでしょ」


 さくらは謙遜するが、果菫はグイグイと迫る。湊音は嫌な予感がした。


「――なんか裏があんだろ」

「え~いやいや、ちょっとステージ立ってくれたりしないかな~って」

「サークル引退したんじゃなかったのかよ」


 ステージに立つというのは、ライブ出演の誘いで間違いない。果菫は軽音サークルの所属だった。過去形なのは、二回目の大学三年生が終わる時に、サークルは引退したと聞いていたからだ。


「後輩が対バン相手、探してんすよ」

「果菫さん、バンドしてるんですか?」


 『対バン』という単語にさくらは食いついた。バンドに関わる単語は、なんでも気になるお年頃らしい。


「サポートで、ギターやってたんす」


 サポートはメンバーが脱退や出演できない事態になった時、ピンチヒッターで代わりに演奏することだ。


 湊音が大学を卒業する頃は五人組のガールズバンドを組んでいたはずだが、バンドが解散してからは、特定のバンドで活動することはやめたらしい。ふらふらと色んなバンドに顔を出していると、果菫本人から聞いたことがある。


「バンドは組む気はないのか?」


 湊音の質問に少しの間を置いた果菫は、寂しそうに首を横に振った。


「ラーメン作って、ギター弾ければいいかな」


 ギターが弾きたいなら、なおさらサポートや寄せ集めのセッションよりも、バンドに加入して活動した方がいいんじゃないか――と言いかけたが、余計なお世話だろう。

 果菫はバカじゃない。何か思うところがあるのは察していた。活動のスタイルは人それぞれだ。他人が口を出すことではない。


 さくらの分も支払おうと会計に向かう。財布を取りだす湊音を制止して、果菫はウインクする。

 

「今日の分はうちのおごりでいいっすよ。その代わり、今度ギター聞いてください」

「気が向いたらな」


 適当な返事を投げておく。果菫のギターを聞いたところで、湊音にアドバイスできることはない。


 手渡されたタバコをポケットに入れようとして、先客を思い出す。行き場を失った箱の中身は、残り一本だった。五分もかからない帰路で一服すればいい。

 反対のポケットは財布に宛がい、タバコを握った。


 一足先に店を出たさくらが礼を告げる前に、湊音は口を開いた。

 情報が集まるまで少し待つこと、行動する前に報連相すること――こちらが嫌になるほどさくらに言い聞かせ、小柄な背中を見送る。


 さくらが見えなくなると、外階段を踏み鳴らしながら自室へ向かった。空を見上げると、西の空には月が薄っすらと浮かび始めている。

 赤い富士山のようなパッケージから、最後の一本をつまみ出す。やっと吸い込んだタバコから紫煙がのぼった。

 湊音を見下ろす月は、皮肉気な笑みを浮かべていた。

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