M3 にゃんにゃん亭

 割り箸を割る子気味のいい音が、湊音の食欲をそそる。

 数日の出来事を話している間、目の前のラーメンをお預けされていたのだ。当然、腹の虫は限界を告げていた。


 中華料理屋「にゃんにゃん亭」は、湊音の住んでいるアパートの一階にある。湊音が学生時代からお世話になっている行きつけの店だ。

 一般的な中華料理のメニューが壁一面に並んでいるが、湊音はラーメンしか頼んだことがない。ちなみに、ラーメン以外を頼んでいる客も見たことがない。餃子などのオプションも含めてだ。

 経営に不安を感じる店だが、アパートの大家が趣味程度で経営しているらしい。


「それから、その子と連絡取ってないんすか?」


 ラーメンのどんぶりを洗いながら、話を聞いていた八尋果菫やひろかすみは肩をすくめた。

 果菫は大家の一人娘。いつも厨房にいるのは彼女だ。

 大学を一年留年し、現在四年生である。就職活動の兆しを心配したこともあるが、店を継ぐから問題ないらしい。


 珍しく真っ昼間に来店した湊音を質問責めにした彼女に、しぶしぶ仕事を辞めたことを伝えたのが、オーダーを通す前。ラーメンが提供されてからは、ずっと経緯を掘り起こされている。所要時間は十分程度だったが、湊音には長い時間だった。


 経緯といっても、退職の経緯ではない。仕事の愚痴を零すたびに、「湊音さんには不向きだと思ってたんだ」と言い続けていた果菫は、やっと辞めたのかくらいのニュアンスで早々に切り上げた。


 果菫の興味を惹いたのは、奇妙な縁で出会ったアイドル志望の女の子――乙羽さくらのことだった。


 いい加減箸をつけても許されるだろう。あらましを話し終えた頃には、ラーメンの湯気はとっくに消えていた。重たくなった麺はほぐすのも一苦労だ。


「偶然電車で乗り合わせて、ライブ一回行っただけの関係だぜ。俺もそこまで守備範囲広くねえよ」

「そういうことじゃなくて」


 じゃあ、どういう意味だよ。スープを啜って、果菫を覗き見る。


「その子、湊音さんとならアイドルになれるって思ってるんじゃない?」

「ふ~ん……っ、はぁ?」


 投げやりな相槌をついた湊音は、一瞬で我に返った。気管に入ったスープでひとしきり咳込むと、目の前の水を一気に飲み干す。

 空のグラスには、また並々と水が注がれた。ピッチャーを傾ける果菫は、詐欺師でも見るように、眉間にシワを寄せる。


「期待させるだけの男は良くないっすよ」

「俺は期待させるようなこと、言った覚えはない」

「言った、言わないじゃない。湊音さんの言動が期待させるんす」


 確かに、彼女の歌声に惚れたとは言った。振り返ってみれば、アイドルを諦めないでほしい、みたいなニュアンスのことを口走った気もする。


「それに、湊音さんの友達あたっていけば見つかりそうっすけどね」

「……転職先探すので忙しいし」


 自分のお先も真っ暗なのに、他人の面倒まで見ている余裕はない。それも昨日今日、会ったばかりの女の子だぞ。

 湊音は心の中でそう零した。口にだしたら、プラスチックのグラスが額めがけて飛んでくるだろう。


 いや、連絡を取らない理由が欲しかっただけかもしれない。学生時代、特にサークルの友人と、連絡を取るのは躊躇するものがあった。


 伸びた麺をひっぱり上げると、一抹の後ろめたさを拭うように啜る。


「仕事見つからねえし、あと半年はヒキニートしてやる! って、入店早々息巻いてのだ~れだ?」


 こんな時、だれか注文でも入れてくれれば話が途切れるのに――助けを求めて店内を見まわすが、客は湊音一人だ。


 平日とは言うもののランチタイムがこんなに暇でいいのか、と胸の内で悪態をついたところで、湊音の味方は誰一人いない。


「五日も経ってるんだよね。炎天下のベンチで、一日中座ってたらどうすんすか?」

「そんな子供みたいなことしないだろ」


 決まりが悪い部分を、チクチクと突かれる。


「もし居たらどうすんすか。熱中症で倒れてるかもしれないし、そうでなくても日焼けで真っ赤になってたらかわいそう」


 雨がアスファルトを濡らすように、不安と焦燥が頭をじわじわと浸食した。

 もしもの話だ。そんなわけない。


 しかし、カラカラに干からびて、ミイラのようになったさくらが「みなとさ~ん」と呼ぶ声が聞こえた。一度浮かんだ妄想は、どれだけ振り払おうとしても湊音に覆いかぶさる。


「ラーメン食べてる場合じゃないっすよ」


 ぬるくなったラーメンは、果菫の手でカウンターの内側へ消えた。

 湊音が卓上のタバコに指を伸ばすと、すかさずそれも没収される。小さく舌打ちを零すと、犯人は素知らぬ顔で布巾をひらひらと振った。


 店を追い出された湊音はのれんをくぐる。直射日光が肌を焼いた。今朝のニュースでお天気アナが真夏日の予定と言っていたことを思い出す。こんな炎天下でずっと待っているわけがない。


 湊音の選択肢は二つだ。


 一つ。

 コンビニで適当な昼飯とタバコを買う。


 二つ。

 見に行ったフリをして時間を潰し、再度店ののれんをくぐる。


 十分すぎるほど時間をかけた湊音は、ガシガシ頭をかいた。杞憂を放っておけるほど、湊音は人でなしではない。つくづく後ろ指を指されたくない性格だった。


「あ~ったく、もう」


 タイミングよくやってきたバスに、湊音は体を滑り込ませた。

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