イズルくんが読んだ本『やぶれる』中編

ユアンと、ユアンと同郷らしき男の会話を聞いたその日。仕事は散々だった。


「トア、働きすぎなんじゃないか?今日は帰って休め」


皿を3枚割ったあと、店長に追い出されるように俺は店を後にした。

情けないような悔しいような。やりきれない思いで、狭い部屋に帰る。


今朝、ユアンのベッドで目が覚めたことがまるで幻のようだ。ギシギシうるさいベッドに寝ころび、汚い天井をぼんやり見上げる。


別れる日が来るのは分かっていた。どれだけ好きでも、身分差には敵わない。一生いっしょにいることは叶わない。


でも、まさか。まさか身代わりだったなんて。


なんだか可笑しくなって、アハハと声を上げて笑ってしまった。

俺、バカみたいだ。いい男に惚れられて、俺も本気になって。あたたかい気持ちを感じて、しあわせだと思っていたのに。いつか別れが来ても、このしあわせな思い出を大事にしようと思っていたのに。


終わりだ。何もかも。俺は瞬きもしないで、ただ天井を眺めていた。


それから数日後の夜。

玄関扉が控えめにノックされた。俺を訪ねてくるのは、ひとりしかいない。だからこそ敢えて、ドアを開けずに「どちらさん?」と聞いた。すると、ドアの向こうから心配そうな声。


「私だ。ユアンだ。店を休んでいると聞いたが…」


早退させられた次の日も出勤したが、顔色が悪かったようで店長に「一週間休め!」と命令されてしまった。ヤル気の出ない俺は、その言葉にありがたく従うことにした。

一週間も休んだら給料の面では少し心もとないが、まあなんとかなるだろう。が、そんなことはユアンには何も言わず、具合の悪いフリをした。


「少し…体の調子が悪くて。ごめん。今ちょっと、見せられるような格好じゃないんだ。明日か明後日くらいには、店に出るから」


暗に『帰ってくれ』と言う。ユアンはどう答えるだろうか。大人しく従うのか。それとも、強引に部屋に入ってくるのか。


どっちだろう。手に汗がにじむ。


「そうか。ゆっくり休んでくれ。じゃあ…」


ユアンは、無理を言わなかった。俺自身が帰るよう仕向ける言葉を投げたのに、ドアから遠ざかっていく足音を聞くのは寂しく悲しく思えた。

俺って、バカだ。


足音が完全に聞こえなくなってから、ベッドに戻った。身代わりだと気付いたこと、ユアンは知らないんだよな。

俺たちの関係はいつまで続くんだろう。少なくとも、まだ今は、心配して家を訪ねてくれるが。あの男との会話で、『迎えに行く』というような感じのことをユアンは言っていた。心臓が痛い。体に張り巡らされている神経が、ザワザワゾクゾクする。


だけど、いつまでもメソメソしてられない。ひとしきり落ち込んだら、今度は腹が立ってきた。


よくも身代わりにしてくれやがって!って怒鳴ってやろうかな。

ユアンの仕事場の前で、大声で別れ話してやろうかな。


そんな想像すると、少しだけ心が軽くなった。その後、やっぱり虚しくて泣けてきた。


一週間ぶりに仕事場に戻ると、店長にも常連にも歓迎された。ユアンとのことは悔しいし悲しいし腹が立つけど、こうやって俺を待っててくれる人がいて、俺って幸せなのかなと気付いた。


ただ、休みすぎたせいか、体がヘンだった。皿を重く感じるし、テーブルにぶつかりそうになるし。

「トア、鈍ってんな」と店長には笑われた。

俺はもしかしたら、緊張してるのかもしれない。心が体に影響を及ぼしてるのかも。…ユアンが、店に来るかもしれないから。


「いらっしゃいませー!」


ドアベルの音に反射的に反応すると。そこには久々に会うユアンの姿。


「空いてるよ、いつもの席」


ああ、言えた。ちゃんと言えた。普通に言えた。大丈夫だ。注文を取るのも、料理を運んで伝票を置くのも、俺はちゃんとできた。


その日も、ユアンは俺を送ってくれた。手を繋いで帰るのも、前と同じ。身代わりのことぶちまけてやろうかと思ったけど、切り出せなくて無言になってしまった。


「トア、大丈夫か?」


「ん?体はもう平気だよ」


「少し、痩せたように思える。元気もない」


繋いだ手を、ユアンはゆっくり握り直した。


「そうかな。まあ、すぐに戻るよ」


俺の家の前。

いつもならお茶の一杯でも飲んでから帰るけど、ユアンは家に上がろうとしなかった。


「今日はここで帰るよ」


「…うん。おやすみ」


ユアンはもう俺の部屋には入らないし、俺ももうユアンの家に入らないんだろうな。

ユアンの背中を見て、そんな予感がした。


体が前のように動かないなあとは思っていた。

でもそれは、ユアンとのことを思い悩んでて、それが体に影響を与えているんだろう。俺は俺が思うよりも繊細なんだなって、自分の新たなる一面を発見した気になってた。


ただそれだけだと思っていた。


そんなある日のこと。昼の営業時間が終わり、テーブルを拭いているときだった。急に、足に力が入らなくなった。貧血を起こしたようにふらふらしてテーブルに手をつく。俺の異状に店長は驚き、「医者に行け!」と命令された。


医者に診てもらったって、原因は心なんだからどーしようもないっての。心の中でブツブツ言いながらも、店長に逆らうこともできないので素直に診てもらうことにした。

診てもらったって何もありゃしないのに。そう思って受診した。それなのに。


「これは…」


医者の診断が信じられず、他の医者も回った。何件も回って、結果は同じだった。


珍しい病気。進行が速い病気。

体に力が入らなくなり、日常生活を送るのも困難になる。体力が落ちて、五感も鈍くなり、食事もままならなくなる。誰かに移る病気じゃないのが幸いか。


「治らない病気じゃない。だが…」


診断を下した医者は、俺を不憫な目で見た。下町で貧しい暮らしをしている俺へ、言いにくい言葉を続けた。

この病気を治すためには、とんでもなく高価な薬が必要だということ。俺の稼ぎじゃ、とてもじゃないけど払えない金額。


ユアンのことが頭によぎった。ユアンになら、払えるだろう。領主の息子で、城の政務官。でも…。


診断が下って数日後。閉店作業を終えたとき、店長に伝えた。


「親戚を頼って、故郷に帰ろうかと思ってます」


病気だとは言えなかった。

同情されたくなかったのか、心配かけたくなかったのか。自分でも分からなかったけど、言えなかった。


店長は残念そうに眉をハの字に下げた。


「そうなのか?お前は大事な店員なんだが…」


俺がいなくなることを残念に思ってくれる人がいる。それはすごく、嬉しいことだった。そして、嘘を吐いたことに、申し訳ない気持ちになった。


俺は故郷には帰らない。

王都から少し離れた田舎町に行く。医者と相談して、俺は田舎町の施療院に入る手続きを進めた。行く場所の無い、貧しい病人を受け入れてくれる場所だ。

まだ俺の体が動くうちは他の病人の介護をして、俺の身体が動かなくなったら誰かに助けてもらう。そういう、最期を迎える場所だ。


最後の勤務まであと数日となったある日の夜。ユアンが店に来た。いつも通りに俺を待ち、送っていってくれた。


「ユアン」


お別れを言おうと思った。しあわせだったこと、身代わりと知って悔しかったこと。そして今、しあわせな時間を与えてくれたことに、改めて感謝できる心境であること。

俺の穏やかな気持ちが伝わっているのか、ユアンもいつもより柔らかな雰囲気だった。


「トア、今日はごきげんだな。体調を崩して以来、気分もふさぎ込んでいるようだったから」


「そうかな?」


今日で別れだと思うと、何も知らなかった頃のように明るい気持ちになれた。さて切り出すぞ、と、ぐっと覚悟を決めたとき。

俺より先に、ユアンが言いにくそうに言葉を紡いだ。


「トア、急で悪いんだが…。明日からしばらく故郷に帰るんだ」


心にすっと入り込んでくる、冷たいもの。明るい気持ちは、風に吹かれたろうそくの火のように消えた。


「そう…」


俺はどんな表情をしたんだろうか。ユアンは苦笑いして、俺の頭を撫でた。


「そんな顔するな。戻ってきたら、また会いに来る」


「…うん」


ちゃんとお別れを言おうと思ったけど、言えなかった。故郷に帰ってレンに会うんだろうか。

…だったら、別れは言わない。今、ここで俺が別れを告げたら、きっとユアンは何の心置きも後ろめたさもなくレンに会いに行くだろう。

別れを告げずにいなくなれば、俺はユアンの心にチクっと刺さるトゲみたいな存在でいられるかもしれない。

それでもいい。

少しでも、ユアンに覚えておいてもらいたい。



施療院での生活は、最初はなかなか慣れなかった。親が死んでからはひとりで生き抜いてきたから、他人と集団生活するのが難しかった。

それでも、俺よりも病状の進行した人を助けたり、励ましたり、病気になった者同士しか分からない悲しみを話し合ったりしているうちに、だんだんと生活しやすくなった。

でも、やっぱり。

階段を降りるときに転びそうになり。少し歩いただけでも息苦しくなり。

ああ、病気は進行しているんだと実感した。

実感すると、その先はあっという間だった。


朝起きられなくなり、食事も消化のいいものを少し摂るだけ。昼も夜もなくなり、ただただベッドでうつらうつらするようになった。

時々意識が浮上するけど、何か考えるわけじゃない。

父さんと母さんと俺と、三人で川遊びに行ったこと。

15でひとりで王都に出て、ツラい経験をしたこと。

あの食堂で働き始めたこと。


初めてユアンに会った日のこと。


一緒に出掛けた日のこと。


夜を共に過ごした日のこと。


身代わりだと知った日のこと。


最後に会った日のこと。


切れ切れに浮かぶ、俺の人生の一コマ。どうしてだろう。父さんや母さんよりも、ユアンのことが多い。


「…ア、トア…」


名前を呼ばれた気がして、目を開けた。目を開けたのに、何も見えない。ああ、目だけ、体より先に逝ってしまったのだろうか。


「ユアン…?」


いるはずがない。こんなところに。貧しい者の、最期の場所だ。


「どうして…どしてこんな…」


死ぬ間際の夢だろうか。俺の願望だろうか。


「おれは、ユアンとは、ちがうから」


お金がない。身分もない。薬も買えない。何も持ってない。


「なぜ言わなかった。病気のことを」


「おれは、ちがうから。レンじゃ、ないから」


もし俺が身代わりじゃなかったら。身代わりだとは知らなかったら。薬代を出してもらいたいと頼んだかな。いや、俺は変なプライドがあったから、頼まなかったかも。どうだろうな。


「レンのこと、知っていたのか?」


「絵を、みつけた。ごめん。話も、聞いた。おれを見て、おどろいたひと」


ユアンは俺の手を握って泣いた。脆くなってるから、骨が折れちゃうよ。痛いよ。


…ああ。ユアンは、俺のために泣いてくれているのか。


「故郷から王都に戻るとトアがいなくなっていて驚いた。食堂の店主は『親戚を頼って国に帰った』と言うし。そんなはずはないと思い、調べたが…。見つけるのが遅くなった。すまない」


謝らなくていいよ。見つけなくてよかったんだ。

少しだけ、ユアンの心にチクって刺さって残ってるだけでよかった。

こんな死ぬ間際の姿を見たら、チクっどころじゃないだろ?

ズキズキして痛すぎるだろ?


ああ、でも、もう少し。

そう、恨み言のひとつでも言いたい。


だけど、おかしい。


もう声も出ない。

握られてるはずの手も痛くない。


何も、聞こえない。

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