イズルくんが読んだ本『やぶれる』前編

「この店のおすすめを」


下町の安い大衆食堂に来るには上品すぎる服装だった。言葉遣いだった。それが、最初の印象だ。


一番忙しいのは昼時。さっと短時間で食べられるものを次々に来る客に次々に提供しなければならない。

その次に忙しいのは夜。でも、昼ほどの忙しなさは無い。お客さんも一日の終わりをのんびり過ごしている。


「いらっしゃいませー!」


ドアベルの音に反応して入口に挨拶を飛ばすと、そこにはいつまでたってもこの店に似つかわしくない服を着た男。


「いつもの席、空いてるよ」


狭い店の、カウンター席。一番奥まったところ。そこを指差すと、フッと少しだけ微笑んでお礼を言われた。


「ありがとう、トア。食事は、いつものを頼む」


了解の合図に手を上げ、他のお客に料理を運んだりなんだり。その一つのテーブルで、常連のオッサンに話しかけられた。


「トア、あの人と知り合いなのか?」


オッサンは物珍しそうにカウンターの奥をチラチラ見る。


「初めて見る?あっちも常連さんだよ」


そう教えるが、オッサンは信じられないという目で俺を見た。


「あの服は、お城の政務官だろ?本物?こんな店に来るか?」


「一般人が冗談であの服を着てたら、しょっぴかれるっての」


そう言って笑ってたら、厨房から料理ができたと声がかかる。ユアンの頼んだ、いつものやつだ。


「お待たせ、ユアン」


テーブルの上に、他の客よりも丁寧に皿を置く。


「…ありがとう。ところで、今日は何時までだ?」


騒がしい店内で、俺に聞き取れるくらいの小さい声。


「閉店まで」


「待っている。送っていこう」


「…別にいいよ」


伝票をぺしっと置いて、俺は仕事に戻った。


ユアンは変なヤツだ。ある日突然この店に現れて、少しずつ話すようになった。気付いたら、仕事終わりの俺を送ってくれるようになった。


「ユアン、送ってくれなくていいんだよ。俺は仕事昼からだけど、ユアンは朝からなんだろ?疲れてるだろ?」


「気にしなくていい。好きでしてることだ」


「あのさー…」


と、言いかけて、口ごもる。ユアンは俺のこと好きなのかも。そうでなきゃ、城で働く政務官が、下町でボチボチ暮らしてる俺のような男を夜中に家まで送ってくれるなんて。

言おうと思った言葉を俺が飲み込むと、代わりにユアンが声を出した。


「トア、今度の休みはいつだ?その日、一緒にでかけないか?」


一緒にでかけないかという提案に、少し驚く。そして、ユアンの気持ちは俺の想像通りなのかと思ってしまう。その感情を見せないように、平静を装って返事する。


「明後日は休み。でも、ユアンは仕事だろ?平日だし」


「大丈夫だ。ずっと働きづめだったから、上官に休むように命令されてるんだ。今までその命令を無視していたけど、明後日は実行しよう」


真面目くさった顔でそんなこと言うもんだから、俺はおかしくて吹き出した。


「そんじゃあ、中央広場の時計台で待ち合わせしようか」


ユアンと出かけることに、抵抗はない。むしろ、嬉しい。身分の高い見目麗しい男が、俺と出かけたいだなんて言うんだから。


約束の日。

私服のユアンを初めて見た。高揚してた気持ちが少ししぼむ。分かってたはずだけど、着ている服がやはりいいものだったからだ。清潔で、何とかおしゃれに見える服を俺が着ていても、並べば一目瞭然。


「あー。こんな服でゴメン」


釣り合ってないことが後ろめたくて、第一声でそんな言葉を口に出してしまった。


「服など…。私こそ、何を着ていいか分からずに気負ってしまった」


気まずそうに微笑むユアンに、俺の心は軽くなる。


「ま、行こうか。どこに連れてってくれんの?」


何もかも差があること。それは分かっていることだ。服ひとつに落ち込んでたら、この先何もかも落ち込んでしまうばっかりだ。俺たちの差は、気にしないでおく。

気にしたって仕方ない。身分差とは“そういうもの”なんだから。


ユアンが連れてってくれたのは、俺が肩肘張らなくていいようなところだった。広い公園を散歩したり、スタンドのコーヒー飲んだり。ユアンは城勤めのエリートだけあって、いろいろ知ってた。

俺が雑草だと思ってた草の名前も、俺がピヨピヨ花って呼んでる黄色い花の正式名称も。


「ピヨピヨ花か。学者が名付けた名前よりも、その呼び方のほうがしっくりくる」


黄色くて、小さくて、丸い花。ヒヨコみたいだから、ピヨピヨ花と呼んでる。俺に学が無いのが丸わかりだったろうけど、ユアンは俺をバカにすることなかった。


そして、その日の帰り。俺の住んでるアパートの前。


「トア。もし君がよければ…。私と付き合ってほしい」


とうとう告白された。今までそう感じていたけど、いざ言葉にされると心臓が跳ねる。


「…うん。もちろん」


たとえ、今の気持ちがずっと続いても、それでも一生添い遂げることはできないだろう。

分かっている。俺とユアンは、住む世界が違う。それでも、今が楽しければいいと思う。別れるときに、ものすごくつらくて泣くことになっても。せっかくの両想いなんだから、一緒にいられる間はこの気持ちを大事にしたい。



付き合い始めても、変わらなかったこと。

俺の働く店に、よくやって来る。店の一番奥のカウンター席に座って、静かに食事をして、そして、仕事終わりの俺を家まで送ってくれる。


付き合い始めて、変わったこと。

送ってくれるとき、手をつなぐようになった。送ってくれたあと、俺の部屋に上がってお茶を飲むようになった。ぼろくて狭いアパートだけど、嫌な顔しなかった。質素な俺の暮らしに同情もしなかった。それが嬉しかった。

同情は悪いことじゃないけど、対等じゃない関係になりそうだから。


この日の夜も、ユアンは店で食事して、そして俺の部屋までやってきた。俺がお茶を淹れると、それをうまそうに飲む。安い茶葉で、使い込んだカップだけど、ユアンは絵になっている。こんないい男と俺は付き合ってんのかと改めて思っていると、不意にユアンと目が合った。


「トア。今度の休み…」


休みが合えば、どこかへ行くのも定番になっていた。だから、その誘いだと思って先に聞いた。


「うん。どこ行く?」


俺が尋ねると、ユアンは薄く笑った。


「…この部屋で過ごしたい。もっと」


ああ、それか、そういうことか。清いお付き合いからの脱却か。この男は、俺とそういうことも望んでいるのか。


「分かった。…まあ、そうだな。おもてなしの準備しとくよ」


「ありがとう」


しあわせというものが、俺の胸の中にじわじわ広がった。



俺たちの関係は深くなって、ユアンに身を任せるのもすっかり慣れてしまったある日の夜。ベッドでごろごろしていたら、突然ユアンが今までしたことのない質問をしてきた。


「トアは、どこの生まれなんだ?」


生まれのことを聞かれたのは初めてだった。なんとなく今まで、お互いに避けてきた。少なくとも、俺は避けてきた。嫌でも身分差を知ることになるから。


「北のリザ領の出身だよ。15の時に、親が病気で死んじゃったんだ。だから、働き口を探して俺は王都に来た。…ユアンの親は?」


俺のことを話したんだから、聞きたくなくてもユアンのことも聞かないと不自然だと思った。


「私の親は…。西方の、ある領地を任されている」


領地を任されているという言葉に、思わずのけぞった。


「領主様!?」


「まあ、そうだな」


「そっか…。すごいな」


胸に少しだけ、小さい穴が開いた。王様から預かっている領地は、よっぽどのことがない限り親から子へと引き継がれる。ユアンも、いずれは領主様なのか。ますます、俺とは違う。釣り合わないにもほどがある。


俺のそんな気持ちを知ってか知らずか、ユアンは俺を強く抱き寄せた。

俺はバカだな。

身分差は最初から分かっていたのに。それを分かった上で、いつか別れることも考えた上で、ユアンと付き合おうと思ったのに。

本気で好きになることを、後悔するつもりなんてなかったのに。


少しだけ開いた穴。その穴を塞ぎたくて、俺はユアンにお願いをした。


「ユアン、今度、ユアンの家に行ってみたい」


知り合ってからずっと。付き合ってる今も。会いに来るのはユアンから。いつもそうだった。俺はユアンのテリトリーに入ったことはなかった。

身分違いだと目の当たりにしたくなかったし、いつか別れると分かっているから。そう思って、俺はユアンのテリトリーに入らなかったけど、今は少しその考えが変わった。


ユアンのことを、もっと知りたいと思った。ユアンに近づいて、ユアンにもっと受け入れられたいと思った。


そう考えて、家に行きたいと言ってみたのだが。無意識にだろうか、ユアンはほんの少しだけ眉を顰めた。

…来てほしくないってことか。

テリトリーに入れてもらえないことに、俺は思いのほかショックを受けてしまった。

だけど、ユアンは言った。


「分かった。今度、そうだな。明後日は仕事か?その帰り、私の家に来て泊まるといい」


「泊まっていいんだ?」


「ああ」


ユアンは微笑んで、そして頷いた。そうか。さっきの眉を顰めた顔は、俺の気のせいだったのかな。気にしすぎか。うん。



「いい家だな。さすが政務官だけある」


ユアンの住んでいるところは、高級住宅街の一角。街灯に照らされているのは、一人住まい用の瀟洒な戸建てだった。


「内装も調度品もすごいな」


物語の中の家みたいだとキョロキョロ見ていると、ユアンは俺の傍に立って、そっと腰を抱き寄せた。


「住み心地はいいが、借りている家だから自分の家という感じはあまりしないな。家事なんかも、通いの家政婦にまかせっきりだ。それより、一緒に風呂に入るか?」


「…別々にする」


ユアンはいたずらっぽく笑って、俺から手を離した。顔が熱くなる。ドキドキする。

ユアンが風呂に入っている間、俺はなんだか緊張してソワソワしていた。

気持ちを落ち着かせるために深呼吸して、首を回して腕を伸ばして少し体を動かす。

すると。

ふと、壁とキャビネットの隙間に、何かが落ちているのが目に入った。あれは…?

気になって隙間につつっと指を差しこんで、紙を引っ張り出す。


「俺…?じゃないよな?」


ノートの大きさくらいの紙に描かれた水彩画。俺かなと思ったけど、俺じゃない。俺はこんな服は持ってないし着たことない。

落ちてたのか隠してたのか分からないけど、見てはいけないものだと本能的に感じた。

元の場所に戻して、見なかったことにする。さっきとは違うドキドキが襲ってきた。

あれは、誰?


「トア、退屈させてしまってるな」


気付いたら、ユアンが居間にいた。いつの間に。ぼんやりと椅子に座る俺を気遣うユアン。だめだ。顔が見れない。


「ううん。ユアンの家だから、退屈なんかしない」


動揺をただの緊張だと誤解したユアンは、優しく俺を抱き寄せた。


「私の家だからといって、そんなに緊張しなくてもいい」


胸に開いた穴を塞ごうとしてユアンの家に連れてきてもらったのに、その穴からはひゅーひゅーと音が聞こえた。


ユアンの家に初めて泊まりに行って以降、俺の家だけじゃなくてユアンの家でも会うようになった。ただのんびり過ごすだけのこともあったし、泊まることもあった。

あの絵を見てしまった以来、心にモヤモヤしたものがあったけど、それを直視したくなかった。ユアンが俺に優しくしてくれる間は、それに縋っていようと思った。


そんなある日曜の朝。ユアンの家で朝を迎えた。


ふたりで朝ご飯を食べて、今度はどこに出かけようかと相談して、のんびりとした朝の時間を過ごした。もっとゆっくりしていたかったが、俺はあいにく仕事に行かなければならない。

「行ってきます」と手を振り、ユアンの家を出てすぐの大通り。その通りですれ違った男に、声をかけられた。


「レン?」


その男が明らかに俺に向かって『レン』と呼んだので、俺はつい足を止めた。違いますよと俺が言う前に、男は取り繕うように早口で謝った。


「…すみません。すごく、知り合いに似てたから。ビックリして」


男は驚いた表情を貼りつけたまま軽く会釈し、足早に去って行った。あんなにビックリするくらいの他人の空似。仕事場に向かわなきゃいけないのに、俺の足は来た道を戻ってしまった。


当たってほしくない予想は当たる。

さっきの男が、ユアンの家に庭先にいた。話している相手は、もちろんユアン。俺は泥棒のように身を潜めて、静かにふたりの会話を聞いた。


「さっき、その道で、レンに似た男に会った」


「…何も言わなかっただろうな?」


苛立ったユアンの声を初めて聞いた。なに?俺に何か、知られてはいけないこと?


「思わず声をかけてしまったが、単なる人違いだと謝っておいた。なあ、あの男は、レンの親戚か何かか?」


「いや…。私たちとは出身も違うし、ただ本当に似ているだけの他人だ」


俺の生まれは北のリザ領で、ユアンの親は西のある領の領主だと言っていた。俺の生まれを聞いたのは、それを確かめるため?レンというヤツと、親戚の可能性があるかどうか確かめるため?


そして、重苦しい沈黙のあと、男が呟いた。


「レンを迎えにいかないのか?レンは何も言わないが、お前を待ってる。今のお前なら、何とかなるんじゃないか?」


男の提案に、ユアンは苦しそうな声で答えた。


「そうだな。学生の頃は親に逆らえなかったが…。王都で自分の力でそれなりに道を切り拓いている今の私なら…」


そこまで盗み聞きして、俺は静かに逃げた。


庭で、でかい声でそんな話してんじゃねーよ。


ユアンと結ばれなかった、レンというヤツ。あの水彩画の男に違いない。どんな男だろうか。身分差があったんだろうか。


ユアンは、親に反対されてレンと別れたんだろうか。別れてもなお、レンを忘れられなかったんだろうか。


だから、よく似た俺に近づいたのか?

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