月下、街灯の照らす手

 路面電車に乗らなくても歩いて駅まで行けそうだったから、僕らはゆっくり歩いていくことにした。月が良く見える。京橋川に架かる大きな橋を渡る。

 ──ねぇ、ここからの眺めよくない?

 広い川を挟むように、土手には街路樹が植えられている。ずーっと向こうのほうまで。その街路樹の外側にはそれよりさらに背の高いビルが立っている。それも同じように、ずっと向こうのほうまで。ビル光か、もしくは月光かはわからないけど、不規則に光を反射する水面が美しい。眺める僕らの後ろで、路面電車の走る音がする。

 欄干に手をついて身を乗り出すようにして眺めている。一歩後ろで彼女と景色の全景を眺める。幸せだ。

 ──ねぇ、新幹線の時間までまだ余裕あるから、ちょっと休もう。

 そういって彼女は、いままで手をついていた欄干に寄りかかった。僕は頷いて、その隣に、同じように寄りかかる。僕たちの目の前を、駅に向かう路面電車が通り過ぎた。

 ──今日は楽しかったね。ありがとう。

 ──いやいや、こっちこそなんだかんだ楽しかったよ、うん。

 そう答えると彼女は一間置いて、

 ──お昼のお好み焼きおいしかったし、そうそう、おやつで食べたジェラートもよかったよね。あ、あとさっきの牡蠣。生で食べたの初めてだったけど、大人の味って感じだったね。って、食べ物のことしか言ってないや。

 そういってこっちを向いて満面の笑みを見せてくれた。僕の口角もつられて、自然に上がっていた。

 ──おいしかったんならよかった。実は前の日にいっぱい調べてたんだよ。

 僕も笑顔を返した。

 月がよく見えた。多分満月だろう。真ん丸だった。

 ──月がきれいやね。

 思ったままの言葉が出た。彼女はなぜか少し驚いて、「うん、そうやね」「私も」と言った。「私も」とは果たしてどういう意味なのかよくわからなかったけど、「月がきれいだ」ということに共感してくれたみたいだ。こんな些細なことでも幸せだと感じられた。街へ行く路面電車が横切っていった。

 ──ねえ……

 聞こえるか聞こえないかの細い声が聞こえた。僕は視線を満月から彼女に移す。見ると、彼女はその手を欄干に置いたまま、僕のほうに少しだけ寄せている。

 ──ねぇ…、手繋いでいい?

 驚きつつも、「うん」と、声になっているかどうかすら危うい声量で返した。そのまま、彼女の右手を左手で握った。どうやって握るのが正解なのか、海外ドラマで紳士っぽい人がやっているビジネスライクな握り方なのか、恋愛映画でありがちな、指を絡めあうような握り方がいいのか。全くわからなかったから、無心というか、意味通り何も考えられずにとにかく握った。柔らかく、暖かい。

 一瞬冷静になって、果たしてどういうふうに手を握っているのか確認すると、どちらかというとビジネスライクな握り方になっていた。「どちらかというと」というのは、あの握手は、本来人と人が向き合ってやるものであって、右手ならば右手同士で握るのだ。今の僕たちのように横に並んで、右手と左手でするものではないのだ。だからこの握り方では、手と手がうまく重なっていないように感じた。お互いの手の凹凸の、凸と凹が合わさるんじゃなくて、凸と凸がぶつかってしまっているような。そんな違和感があった。

 ──なんか、違和感あるね。

クスっとわらって彼女がそう言った。

 ──ほら、指開いて。

 言われるがまま、指示通りにする。そうしてできた指と指の隙間に、彼女もまた同じようにして、握りなおした。今度は全く違和感がなかった。ただ、さすがに恥ずかしすぎた。家族以外の人とここまで密着したことは今まで一度もなかった。はじめての感覚だった。これが人のもつ暖かさで、それは愛すべきに違いないものだ。

 暴力的といっても差し支えないほどの暖かさだ。次第に僕は、手汗をかいていないかどうかが気になりはじめた。でも、そんなこと関係ないといわんばかりに、彼女はしっかりと握ってくれている。それを感じて、僕も一層、離れないように、この時間がずっと続くように、握った。離したくなかった。

 気になって彼女のほうを見た。彼女はそれに応えるように、顔をゆっくりとこちらへ向けた。

 数秒、そうして見つめあって、ゆっくり、目を閉じて、その唇を突き出すようにした。その意味はさすがの僕にでも理解できた。

 緊張で握る手に力が入る。ゆっくりと顔を近づける。彼女の鼓動が聞こえてくるようだ。鼻があたらないように顔を少しだけ傾けて、息を止めて、唇を重ねた。数秒そうして、息がもたなくて離す。彼女は瞼を持ち上げ、再び見つめる。照れたように笑いかける。僕もおなじように、笑う。

 ──緊張した?

 ──……うん。わかる?

 ──わかるよ。手、震えてるもん。

 ハハ、言われるまで気づかなかった。まだ僕の手は震えている。こんなことを指摘されるなんて恥ずかしいこと極まりない。きっと僕の顔は真っ赤になっているだろう。夜でよかった。

 ほどきかけた手は彼女によって握りなおされた。僕の緊張を落ち着けるように、優しくしっかりと握ってくれている。

 ──一緒にいたいよ……

 彼女がつぶやくように言ったのを聴き逃さなかった。僕もできることなら一緒にいたかった。同じ高校に行くか、最低でも高校は違っても、休日に気軽に会いに行ける距離でいたかった。でも仕方なかった。引っ越しは親が決めたとはいっても、僕も進んで了承したところがある。文句は言えないし、言うつもりもない。ただ彼女と一緒にいられないという一点においてのみ、後悔はある。

 ──うん、俺も。離したくないよ、この手。

 ──ずっと一緒にいたい。

 彼女とまっすぐ目を合わせる。曇りないその眼を、美しいと思った。唇、さっきまで僕と重ね合わせていた唇は、街灯に照らされ少し光沢を帯びて妖艶な雰囲気を醸している。そのままもう一度キスをした。

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