勇気

 外は震えるような寒さだった。千田は家が遠いから、「じゃあまた明日ね」といってそうこうしない内に帰っていった。小林も、「途中まで同じ道やから」といって、先に行ってしまった千田の後を追って行ってしまった。僕と佐藤は家が隣みたいなものだから同じ方向だけど、藤村さんはどちらかというと逆方向だ。だから「何もない」なら、ここで解散となる。しかし僕は、まだ藤村さんとお話をしていたかった。

 というのも、さっきまでのビュッフェの時、僕と藤村さんはお互いが正面になる席に座っていた。必然的に何度も目が合ったのだけれど、二人だけの直通で何か話をするということはできなかった。いわば、間接的だった。僕が何か話すのは佐藤や千田も含めた「全体」に対してで、それに対する藤村さんのレスポンスもまた、僕を含む「全体」に対して返されるというような。「全体」というハブを中継していたというイメージ。だから話す内容も、話せる内容も全体向けのもので、藤村さんと個別に話すということはできなかったのだ。僕にはその心残りがあった。圧倒的に話足りなかった。

 ──あいつら二人行っちゃったし、じゃあどうする?俺たちも解散でええんなら解散にするか?

 ──いや、待って。藤村さんに読んでほしい本があるんよ。

 藤村さんが不思議そうにこちらを見る。

 ──今日帰ってさ、本棚見てたら、昔読んだ面白かった本見つけてさ。だから、この間貸してくれたお返しに、みたいな…。

 ──えっと、今は持ってきてないんだけど…。家にあって。だからちょっと、よかったら、ついてきてくれん?

 横で佐藤がニヤニヤしながら僕のほうを見ているのがわかる。

 僕はもちろん、家に帰ってからできる限り無駄なことはせずにすぐに佐藤の家へ向かったのだから、本棚など見るわけがない。だからこれは全くの嘘だ。面白いと少しでも思ったことのある本が家にあったかどうかすら覚えていない。でも、そうでもして、言っていないこと、まだ話していないことを今日、今、話しておかないと、後悔する気がした。

 ──うん。いいよ。まだ八時過ぎだし。それに、松本くん家、いってみたいし。

 ──よし、じゃあ帰るか!俺も途中まで行くけど、本に興味はねぇからパスな。二人でどうぞじっくり話し合ってくれや。

 佐藤は僕のほうを見てずっとニヤニヤしている。その理由は何となくわかる。

 僕の家に到着して、佐藤は宣言通り帰っていった。一言、「明日学校で今からのこと全部聞くからな」とだけ残して。

 藤村さんにはとりあえず、家の前で少し待ってもらうよう頼んだ。というのも、家には母さんと妹が確実にいるし、多分今日は父さんもいると思う。そんな中に女子を連れてきたら、面倒くさいことになるに決まっている。僕も藤村さんも、主に母さんからの、時々父さんからの質問攻めに会うのは容易に想像できる。だから、寒い外で待ってもらうのは少し気が引けたけど、仕方なかったし、それに対して藤村さんは嫌そうなそぶりは何一つ見せなかった。ただ、「じゃあ、待ってるね」だけ。

 夜ご飯はいらないということだけ母さんに伝えて、自室の本棚をあさった。そもそも本をあまり読まないし、最近まで受験生だったということで、本棚の手前側には参考書や単語集の類が並べられていた。それらを掻き分け、昔読んだことのある小説を探す。そうして見つけ出したものの中から、読んだ覚えがあって、かつ面白かったような記憶があるものを二つまでに絞った。一つはカフカという人の『変身』で、これはたしか、なぜか男が虫になってしまってどうのこうのという話。もう一つは港川という最近の作家の、『熱唱』という本。これは阪神淡路大震災を扱っていて、感動できる話だったと思う。

 はたしてどっちを持っていこうかと迷った。『熱唱』のほうは、たしかちょうど一年前くらいに読了したから、比較的内容を覚えていて藤村さんにもおすすめしやすい。一方で『変身』を読んだのは恐らく小学生の時だ。もともと父さんが持っていた本で、リビングの机に放置してあったのを、夏休みでたまたま遊ぶ約束がなかった僕が暇つぶしに読んでみたのが最初で最後だ。暇つぶしで読み始めた割にはなかなか面白くて惹きこまれて、あっという間に読み終わった。その年の読書感想文もこの本で書いたはずだ。読後の後味は、悪かったように思う。

 その二冊を両手に見比べて、少しだけ考えて、結局『変身』を持っていくことに決めた。海外の人の本を読んでいるというのは少しかっこいい感じがしたし、何よりあの読後感だ。

 たしか藤村さんは、今日の下校前に話していた時、「『鎖』の作者のほとんどの作品は後味悪い」というようなことを言っていたと思う。それはその作者の他の作品をたくさん読んでいるから言えることであって、だから、そういう「後味悪い系」作者の本をすすんでたくさん読んでいるということは、もはやそういうのが好きなんじゃないか。それならこの『変身』も、じゅうぶん「後味悪い系」に入っているから、藤村さんも気に入ってくれると思った。こういうわけで、僕は再び、一冊の本をもって家を出た。

 外はさっきよりは暖かくなっているように感じた。それでも寒いことには変わりない。藤村さんに待たせた詫びの言葉を言い、さっそく本を見せようとした時だ。

 ──あのさ、立ち話も何だし、どっか座って話せるとこ、ないかな。

 ──えっと…。あ、じゃあ、近くに公園があるから、そこのベンチとかは?

 ──じゃあそこにしよ。

 僕にとっては思いがけないことだった。僕は彼女と話足りなくて、でもわざわざどこかで座って話をするのは、夜だし、寒いし、ということで遠慮していた。僕のわがままにそこまで付き合ってもらうのはできなかった。だから、僕の家の前でもいいから、せめて少しでもいいから、という気持ちだった。なのに、彼女のほうから、わざわざ「座って話をしたい」と申し出られた。素直に嬉しかった。

 公園は本当にすぐ近くにある。歩いて三分くらいだ。僕がまだ小さいとき、幼馴染や近所に住んでいた子たちとよく遊んでいた場所だ。長い滑り台があるから、僕たちの間ではそのまま「滑り台公園」と呼ばれていた。

 冬が明けて間もない夜の公園には誰もいなかった。夏になると地元の高校生がたむろしているのを見かけることがあったが、この季節はさすがに誰もがひきこもるらしい。

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