二章 人生の春
春
受験までの三週間は驚くような速さで過ぎていった。一ヶ月弱という時間を、ここまで短いと感じたのは初めてかもしれない。塾での授業が二月の廿日あたりで終わって、嫌々行く必要がなくなったからかもしれない。
それと同じように、高校入試の試験自体もまた、一瞬で過ぎていった。早く解きおわってその半分くらいが待ち時間になっていた模試での一時間も、受験本番では時間ギリギリまでペンを動かした。緊張して普段通りにできなかったというのもあるが、何より、ここ一年間勉強し続けてきた頑張りを無駄にしないように問う気持ちが強かった。
それはともかく、結果は来週十四日の午前中に発表される予定になっている。滑り止めで受けた私立高校からは既に合格通知が届いているから、少なくとも高校生になれることは確定している。本命の公立校の結果を待つのみだ。
そして何より、明日は卒業式だ。その予行練習を行うために、今日は受験を終えて肩の荷が降りた生徒たちがほぼ全員、登校している。僕も例外なく、早起きしていつも通りの時間に家を出た。いつも通り西山の家まで行って、自転車を並進させて、元顧問に元気に挨拶してそれぞれの教室に入った。
しかし、この「いつも通り」は、明日からはやってこない。明日からそれは「思い出」になる。僕たちはもうそれを二度と体験できなくなる。
体育館に全校生徒が集まり、通しでの予行練習が始まった。入場から国歌斉唱、証書授与から式辞と祝辞、答辞。卒業歌と校歌を歌って退場まで。明日行われる式の全てを止めることなく行う。
ただの、と言ってしまえば無粋かもしれないが、予行練習にもかかわらず、何人かの女子が泣いている。しかし彼女らをそれでイジろうとは誰も思ってないみたいだ。小中と地続きだった交友関係は、明日からなんの慈悲もなくぷっつりと断たれるのだ。その寂しさを噛み締めているのはみんな、同じだ。
二度の予行を行い、三年生は一度教室へ戻り、最後のホームルームをする。明日の開会時間と集合時間の案内を担任が終え、昼過ぎに下校ということになった。とはいっても、ほとんどの生徒は帰ろうとしない。友人と飽きるまで話すのだろう。僕もそのうちの一人だ。
──おい、おまえ今日帰ってから暇か?
話しかけてきたのは佐藤だ。
──うん、暇やけどなんかあるん。
──よし、じゃあ、遊ぶぞ。
──ええけど、何するん。スマブラならコントローラー持ってくで。
──いや、いい。とりま帰ったら飯食って着替えて俺ん家こい。
あぁなるほど、ショッピングモールか、とすぐにわかった。この街には市内でもかなり大きい部類に入る「ドリームタウン」というショッピングモールがある。といってもそれは田舎において大きいというだけで、都会にあるイオンとか、そういうのと比べると相当に小さい。多分、三分の一くらいの規模じゃないだろうか。でも一通りの施設は揃っていると思う。ゲーセンと本屋があるし、服を買える店もそれなりにある。それに加えて最近、手芸道具屋に代わって無印良品がテナントに入ったことで、人影が相応に多くなっているように感じる。
佐藤のことだから、高校に向けて新しい服でも買うつもりなのかもしれない。理由はなんにせよ、わざわざ着替えてこいと言う場合はだいたいドリームタウンに行く時だ。僕は二つ返事で了承した。
クラスの数人が帰り始めた。一方で僕はやらなくてはならないことがあった。藤村さんから借りていた本を返さないといけないのだ。
本当のことを言うと、あの日、藤村さんの家に招かれた日から一週間のうちには既に読み終わっていた。どうしても暇な時にだけ本を開き、結局一冊読み終えるのに一ヵ月くらいかける僕にとっては異常なことだ。それだけ彼女から借りた本、『鎖』がおもしろかったというのもあるけれど、それだけじゃないのはたしかだ。それじゃない方を言うにはあまりにも恥ずかしいから、言えない。
その前に、読み終わったんならさっさと返せよというツッコミが入るだろう。もちろん借りたものはできるだけ早く返すのが礼儀だし当然のことなんだけど、こういう場合はあまりにも早いと、それはそれでなんだかムサいように感じた。読み終えたのが早ければ早いほど、彼女への熱量というか、思い入れ、みたいなものが大きいことを表してしまうんじゃないか。彼女の本に熱心であることはつまり、彼女に熱心であることと同じだと思った。そのことを悟られたら、彼女から引かれてしまうんじゃないかと思った。だから、そうではない風を装う必要があった。「別に藤村さんから借りたからと言って特段熱心になるわけではなく、いつも通りの自分のペースで読み進めていますよ」感だ。
こんなのは誰のためにもならない。強いて言うならば自分の心の護身にはなっているが、幼稚な考えだ。それでも僕にとってはそれが一番大事なことだった。人から嫌われたくないし、傷つくのももう嫌だ。
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