初夏、吹雪
幸いなことに、見上げた歩道橋には人影があった。そしてそれは二つあった。一つは僕に手を振っている。多分、小林だ。
──松本、お前遅すぎな。
──何しちょったん?寒かったんよほんとに。
全く迷惑そうでない声でそう言ったのは藤村さんだった。「驚いたことに」と枕につけるのが適当なんだろうけど、僕はそれほど驚かなかった。やっぱり心のどこかで期待していたみたいだ。
──ごめんごめん、授業が長引いちゃってさ…。
言い終わる前に藤村さんの手が差し出された。薄ピンクの紙袋だ。
──これ、今日バレンタインでしょ?だから…、あげる。
──え、あ。ありがとう…。
この状況は予想していたはずなのに、うまく言葉が出てこなかった。結局出てきたのは煮え切らない「ありがとう」だけだ。
──マジでさあ、仁菜、大変だったのよ。『何回やっても上手くできなーい』って言っててさ。仕方ないからウチが手伝おうとしたら、『一人でやりたいの』って強がるしさ。
えぇ…。
──でもどう見てもできそうにないから、細かく教えてあげたんよ。それでなんとか一時間前にできたのがそれね。もしかしたら冷ましきれてないかも。松本来るのおせぇって言ったけど、ウチらもここ来たの十分前くらいだし、まあ許してやるよ。
藤村さんは小林が話している間、少し俯いて、大きなマフラーに頬までを埋めていた。
──大変だった…。でも、渡せてよかった。来てくれんかったらどうしようかと思ってた。
隠れた頬が赤くなっているように見えた。寒さのせいか、それか、料理ができないことに対して恥ずかしいと思っているのか、もしくは、もしかしたら。
僕は胸の辺りが温かくなるのを感じた。外気は破滅的に冷たいのに、僕の体内だけは初夏の晴々とした空みたいな温かさだ。彼女もそうなのだろうか。彼女のマフラーは首元を温めているだけじゃなくて、その内側も同じように、初夏の温度を保っているんだろうか。
もしかして。いや、そう考えることすら思い上がりのように感じてならないが。本当に、もしかしたら、彼女、藤村さんも僕のことを好き、というよりは良く思ってくれているんだろうか。いや、そりゃあ良くは思ってくれているだろう。良く思わない奴を自宅に招いたりなんかしない。じゃあ、「良い」よりも上、つまり「好き」と思ってくれているんだろうか。もしそうなら、両想いだ。なら、今この場で仮に僕が告白したとしても、成功するということだ。じゃあ、いっそのこと
──うん、ありがとう。来月、なんか返すね。あと、待たせてごめん。
──……あとさ、
──…ん?
──……いや、何でも。あ、あと、この間借りた本、もうちょっと待ってて…。
藤村さんは小さく頷いた。僕の勇気はすんでのところでひっこんでしまった。
少し冷静になれば、両想いかもしれないなんて僕の勝手な想像に過ぎない。勝手に期待して、勝手に都合のいいように解釈しているだけだ。藤村さんはただ、一人の「友達」としてプレゼントをくれただけかもしれないのに、そこでいきなり舞い上がって「好きです」なんて言われたらどう思うだろう。気持ち悪いと思われるに違いない。
頬が赤くなっていたのだって寒さのせいだ。
──ふうん、じゃあ、もう解散でいいの?松本はあっちやろ。うちらこっちの道やから。ほんとにいいんならまた学校でね、やけど。
──えっと、え、うん。じゃあ、解散。で。
唐突に割って入った小林に驚いたが、僕はその提案に乗った。強調された「ほんとに」が、何となく、心のドアを叩いたように感じた。
僕は二人の姿が大体見えなくなるまで歩道橋から見送った。闇空からは雪が降っていた。それに気付くと同時に初夏の体温はぐんぐん冷えていった。ただ、左手だけは温かいままだった。藤村さんからもらった紙袋だ。なるほど小林の言う通り、この中身は出来立てみたいだ。中身がクッキーやチョコレイト、はたまたカップケーキのようなものでも、お菓子は基本的に冷まさないといけない。ほんとうに、ぎりぎりまで作っていてくれてたんだ。
自転車のカゴに乗せて、振動で中身が崩れたら申し訳ないし、何より僕自身が一番残念がると思うので、紙袋を左腕に抱いたまま、右手で片手運転して帰ることにした。冬の夜の空気は、手袋なしで自転車に乗るには厳しすぎるものだったけど、左手は温かさを保っていた。
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