自信の正体

 教室はとてもそわそわしていた。学校も塾も、表向きの雰囲気は変わりなかった。

 暖房が効きすぎているのか、カーディガンを着たままでは少し暑かった。僕はそれを脱いで椅子に掛けたけど、周囲にそうしている人はいなかった。暑いと感じているのは僕だけのようだ。

 授業自体は何も問題なく終わった。先生は「本番まであと何日だからしっかりやるように」とだけ言って教室を出て行った。それはすなわち、僕の勝負の開始の合図だ。素早く、且つ泉たちに目を付けられないように帰ることが求められる。それに何より、今日は小林との約束がある。

 先生はいつも時間通りに授業を終えるから、今の時刻は九時半。ここからまっすぐ駐輪場に向かって、普通に漕いでいけば約束の四十五分にはじゅうぶん間に合うだろう。僕は急いでシャーペンと消しゴムを筆箱に入れ、テキストを鞄に放り、教室を出ようとした。泉たち三人は談笑していて、こちらには気づいていないことを確認し、ドアノブに手をかけた。背後から声をかけられた。

 ──ねぇ松本くん。これあげるよ。

 振り返ると図体の大きい女子生徒が立っていた。浜田さんだ。彼女は三年生になってから新しく入塾した生徒で、性格はかなり明るかった。一方でその体型が茶化されることが多く、男子たち(特に泉たちのグループ)からは陰で「肉団子」という風にバカにされていた。カースト上位の女子グループも、表向きでは彼女と仲良しを演じていたが、裏では泉グループと一緒に陰口を叩いているのを僕は知っていた。

 ──今日バレンタインでしょ。松本くんいっつも来るの遅いから授業始まる前に渡せなかったんだよね。だから、あげる。

 テディベアの印刷を施してある茶色い紙袋を差し出された。貰えるものは貰っておく主義だし、今のところは誰からもチョコレートを貰ってないので、断るわけはなかった。

 ──ありがとう、来月何か返すよ。

 ──へへっ。期待してる。

 彼女は微笑して、友人との会話に戻った。僕はテキストや筆箱を鞄の中の片端に寄せ、紙袋をぐしゃぐしゃにせずに入れることができるスペースを作った。そこに丁寧に彼女からのプレゼントを入れ、顔を上げた時だった。泉がニタニタと笑いながら、肩を組んできた。

 ──よぉ、一緒に帰ろうぜ。

 ──今日はちょっと用事が、

 ──いいじゃんちょっとくらい。つきあえよ。

 右肩を握る握力が強くなったのを感じた。僕に拒否権はなかったが、今日だけはそれでも抵抗しなければならなかった。だって、小林が待っている。そしてそこには一緒に藤村さんもいるはずだ。いや、藤村さんも一緒にいるとは一言も言っていなかったか。数時間前に捨てたはずの希望だったのに、捨てきれていなかったみたいだ。なかなか自分のことが情けなく思えたが、今はそういう自己嫌悪をしている場合ではない。

 ──泉、今日だけは、ダメだ。すまないが、またにしてくれ。

 教室の注目が僕に集まるのがわかった。丁度いい迫力のある声の出し方がわからなかったから、思ったより大きい声になってしまった。一方で彼らは、少し驚いたようではあったが、二秒後にまたニタニタした表情をし始めた。

 ──わかったわかった、そんなに言うんなら駐輪場までな。

 この会話の顛末を教室の全ての目が見ている。駐輪場は塾を出て本当にすぐのところにある。そこまでですら一緒に行きたくないと言うのは、かえって僕と泉との間になんらかの問題があるということを教室中に知らしめることになってしまう。勿論問題しかないのだが、それを全員に知られるのは僕の本意ではない。もし知られてしまえば、今まで何も知らず普通に接してくれていたやつからも色眼鏡をかけてみられることは間違いない。そいつらは多分、僕に同情するか、もしくは泉に恐れをなして、僕のことを殴ったりはしないだろうけど、最低でも無視を決め込むはずだ。

 つまり僕は、「せめて駐輪場までは一緒に帰る」という泉の悪魔の囁きに「うん」と答えなければ、自分の首を絞めることになるのだ。そして残念なことに、「うん」と答えてもまた嫌なことがあるのは間違いなかったし、そもそも駐輪場までで済むはずもなかった。

 泉は僕と肩を組んだまま顔だけ後ろを向いて、じゃあなと言って歩き始めた。何人かの女子がバイバーイと返すのが聞こえた。これからされることを想像して、その恐怖のせいでもはや通常の思考ができていない僕にでも、肩を組んで隣で歩いていると、彼のその歩幅がとても大きいことが分かった。僕が普通に歩く歩幅の、およそ1.5倍はありそうだ。足がもつれそうになる。たぶん、自分に自信を持っている人はこういう歩き方をするんだろう。自分がその空間に存在することに一分の疑問も抱いていない、他人の視線を全く意に介さない、そんな堂々とした歩き方だ。

 駐輪場までは、ずっと一方的に肩を組まされたまま歩いた。泉と僕が前で、後ろに奥川と安田がついている。僕以外の三人はここに来るまでずっと楽しそうに誰かの悪口を言っていた。察するに、彼らの学校の先生の悪口のようだった。僕はそのなかで、ずっと黙っているしかなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る