二月、愛すべき日常

 教室はとてもそわそわしていた。その理由は単純明快、今日がバレンタインデーだからだ。朝礼が始まるまでに、既にもらっている人も何人かいたようだった。佐藤はその中に入っている。もちろん僕はその外側だ。

 そもそもバレンタインに期待はしていなかったから何とも思わない。それよりも、今日も塾に行かなければならないことが憂鬱だった。

 受験直前期ということで、週に四回くらいは塾に行っている。そのたびに、何かしらの嫌がらせを受けることになる。その内容は殴る蹴るという普通の暴力もあれば、いつかのコンビニの時のように、金を強請られるという場合もある。

 一方で珍しいことに、おとといだけは特に何もされなかった。リーダーの泉が休みだったからかなと思ったけど、それは違うだろうと考えなおした。数か月前、泉が風邪で休んだ時、安田と奥川は二人掛かりで僕をトイレに押し込んで、おなかを目一杯殴ってきた。だから、泉がいないことは理由ではない。とはいっても、他のそれらしい理由は見つからなかった。

 教室では一限目の授業が始まっていた。外から雀の鳴く声が聞こえた。隣のクラスが運動場でサッカーをしているのが見えた。一日の始まりをサッカーをして過ごせるのはうらやましいなと思った。こっちは退屈な数学の授業で、既に眠くなっているというのに。

 ──松本君、もうできたん?じゃあまた、小林さんの見てあげてくれる?

 少しは眠気が覚めそうだ。小林に教えるのは面倒だが、良い暇つぶしにはなる。

 自分の椅子を持って小林の机の横に置いた。なぜか、小林はニヤニヤしていた。

 ──いやぁー、天才松本君には悪いんだけど、今日は分からないところなくてさー。

 へぇ、と思ってプリントを見ると、本当に間違っているところがなかった。小林は勉強すれば出来る人なのかもしれない。今までやってこなかったから馬鹿っぽく見えていただけで、潜在能力自体は高いのかもしれない。

 ──佐野先生には秘密よ、マジで。

 小林がもうできていることを先生に言ったところで、僕はまた、他のできていない人のところに飛ばされるだけだった。これ以上席を動くのも面倒だったので、先生には言わないでおいて、小林と雑談でもしておくことにした。授業時間はまだ三十分も残っていた。

 ──今日バレンタインやん、もう貰った?

 ──いいや。俺、モテねぇもん。

 ──今日塾は?

 ──あるよ、ちゃんと。

 ──何時に終わるん?

 ──九時半に終わって、家につくのは十時前かな。

 ──塾って駅前のとこやったよね。じゃあさ、帰り道の途中にでっかい歩道橋ある

   やん?あそこでちょっと待っててよ。九時四十五分くらいかな、そんくらいで。

 ──いいけど、どしたん。なんかあるん?

 ──それは秘密やねー、まあ楽しみにしとき。

 今日、わざわざ夜に会う約束をするということはもう、そういうことだろう。とりあえず今年は、「一つもチョコを貰えなかった」という不名誉な称号は授からなくて済みそうだ。そういう自分本位な意味でなくても、小林からでも誰からでも、人から何かを貰うという時点で十分嬉しい。

 でも実際のところ、小林と一緒に藤村さんもついてきたりしないだろうかと期待する自分がいた。この間は家にまで上げてもらったのだから、十分可能性はあるんじゃないか。どんどん期待は膨らんでいった。

 一方で「期待する」ということは、自分が「期待している」ことに気が付いた時点で、それを冷まそうとする作用が勝手に働くものだ。僕にもその作用は例外なく働いた。変な期待はしないほうがいい。もし期待通りにいかなかったときでも、そうしたほうが自分へのダメージが少ないことを知っている。

 僕は藤村さんもついてくるんじゃないかという期待を捨てた。

 学校はそれ以外ほとんど何もなく終わった。いつも通り、佐藤と一緒に家路についた。佐藤は結局、四つ貰ったらしい。

 ──そのうち一つは、マネ―ジャーが元サッカー部全員に配ったやつだからノーカンやな。

 そう言って、にやついてこっちを見てきた。うぜぇなあと思いつつ、こういうところが憎めない。こっちが一つももらえていないことを知っていてこんなことを言ってくるのだ。

 僕は佐藤に、塾に早く着くと暇だからと言って、コンビニに行こうと誘った。佐藤は勿論快諾した。

 僕たちは割と頻繁に、学校からの帰り道でコンビニに寄って買い食いをしていた。僕がいつも買うのは、ファンタのメロンソーダとハリボーのグミだ。佐藤はフルーツミックスジュースとアルフォートだ。

 ──おまえ、いっつもそれ食うよな。

 ──いやお前もやからな、人に言える事じゃないで。

 そう言って缶ボトルの蓋を開けた。佐藤が口を開いた。

 ──そういえばお前さ、この間、藤村さんち行ったやろ。

 びっくりして、口に運びかけた缶を止めた。佐藤の眼を見た。

 どうして佐藤がそのことを知っているんだろう。少なくとも僕は誰にも言ってない。それこそ、一番仲のいい佐藤にすら言っていなかったのだから。

 かといって藤村さんが言ったのかというと、それもあり得る筋ではないように思える。藤村さんはそういうことを簡単に人に言ったりしなさそうだし。

 ひとまず、僕は佐藤に対しては勘弁することにした。ここまで直接的に聞いてくるということは何かしらの確信があってのことなんだろう。

 ──お前だから言えるけど、行ったよ。それはいいとして、誰から聞いたんだよ。

 ──あれ、これって言っちゃダメなやつやったかもしれん。すまん忘れて。

 そう言われたほうが気になるということは言うまでもない。

 ──いやぁ、じゃあ仕方ないから言うけど、俺が聞いたのは藤村さんから。

 え。と、僕は漏らした。

 ──どんな感じで話してた?

 ──特に変わった感じはなかったけど。「松本君に数学教えてもらったんだー」みたいな。マジで、普通。期待すんなよ。

 ──しねぇよ別に。

 確かに普通だ。ただの日常会話かもしれない、僕のほうが考えすぎだったみたいだ。でも、男子を自分の家に呼んだことをそんなに軽々しく話すものなんだろうか。佐藤のジュースはもう半分くらい減っていた。僕は喉が渇いていたけど、何かを飲む気にはならなかった。キャップを閉めて鞄に放り込んだ。

 ──そろそろ行こう。塾行かんにゃいけん。

 寒さ盛りの午後五時は、既に夜を迎える準備をしていた。

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