母性

 それからどれくらいたったのかわからないけど、階下から女性の声が聞こえた。藤村さんのお母さんが帰ってきたんだろう。

 部屋の時計を見ると六時半を回っていた。ちょうどいい時間だ。

 ──藤村さん、今日は帰るね。

 僕は帰り支度をして、藤村さんに続いて階段を下った。上る時には何も思わなかったけど、下るには少し急な階段だった。

 僕はキッチンに立っていたお母さんにおじゃましましたと言った。お母さんは少し驚いた様子だった。「夕飯、食べていったらいいのに」と勧めてもらったけど、断った。お兄さんはこたつで寝ているようだったので何も言わないでおいた。

 ──じゃあ、帰ったらメール、見といてね。

 僕は全くメールのことなど忘れていた。

 ──うん、今日はありがとう。またね。

 自転車に乗って、田んぼと田んぼの間の道を進んだ。空はすっかり暗くて、三日月が遠くに見えた。


                    *


 家のドアを開けると、いいカレーのにおいがした。

 ──おかえり、遅かったね。

 ──うん、学校で友達と勉強してた。

 母さんはキッチンで手を動かしたまま、「そう」と頷いた。

 ──あと三十分くらいでご飯だからね。

 「うん」と言って僕は自分の部屋へ向かった。

 僕はさっそくメールを確認しようと思って、タブレットを探した。最近はあまり使ってなかったから少し埃をかぶっていた。

 電源ボタンを押したのに画面は明るくならなかった。ずっとスリープ状態にしていたから勝手に電池が切れたのだろう。急いで充電コードを挿した。起動までの時間が煩わしかった。

 その画面は五分後にやっと点いた。メールのアイコンをタップして、新着メールを見た。いろんな企業からのキャンペーンのお知らせがいっぱい溜まっていた。上のほうにスクロールすると、一番上の、一番新しいところに藤村さんからのメールがあった。


 〈こんにちは。なんか、メールって久しぶりに使うからすごい新鮮。

  ちゃんと届いてたらお返事ちょうだいね。待ってます〉


 なるほど。

返事はなんて送ろうか、ぼくは考えた。普通なものにするなら、「届いてたよ。きょうはありがとう」だろうか。でも、これだと話が発展しないし、冷たい奴だと思われそうだ。

だからといって迂闊に調子づいたことは言えない。それは藤村さんから「キモい」と思われる危険性があるからだ。

 僕は何回も打ち直した。句読点や改行にまで気を使った。誤字がないか何度も見返した。「キモい」と思われそうなところがないか、できるだけ客観的に確認した。そうしてニ十分くらいかけてやっと、送信できそうな文章が完成した。


 〈届いてたよ、今日はありがとう。

  本、読んだら学校で返すね〉


 送信ボタンを押した。ちょうど母さんが、ご飯ができたと部屋の扉を開けて呼びに来た。僕はちょっとびっくりして、タブレットをスリープ状態にして席を立った。

 父さんは残業、妹は習い事に行っていて、食卓は僕と母さんで囲んだ。メニューは野菜がたっぷり入ったカレーと、レタスとキャベツ、トマトのサラダだった。

 ──あんた、なんかうれしそうね。なんかあったの。

 ──え、そう見える?特になんもなかったけど。

 母さんはぜんぶお見通しのようだった。さすが親だなと思った。だけど、好きな女子の話を母さんにするのは恥ずかしかったから、秘密にしておくことにした。それに、打ち明けたら打ち明けたでそれも面倒くさそうだ。

 ──そう。てっきり彼女でもできたんかとおもったわよ。

 ──いや、できるわけないよ。

 全く、親というのはすごいものだ。

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