放課後の音符

 二階の一番奥が彼女の部屋だった。部屋はとてもいい匂いがした。深海のような、透き通った甘い香りだ。家具は白を基調に、フェミニンな感じだった。ベッドにはピンクの大きいぬいぐるみがあった。

 ──松本君ごめんね?うちのお兄ちゃんいっつもあんな感じだから。

 「全然大丈夫」と言いながら、僕はまだ部屋を眺めていた。視線は巨大なぬいぐるみから、薄いレースのカーテン、目の前の小さな折り畳み机、小洒落た照明へ。そしてそれは、本棚で止まった。

 ──え、藤村さんってこの人の本よく読むん?

 本棚の中の一区画が同じ作者の小説で埋まっていた。僕はその人の名前を知らなかったけど、あまりにもその人の本ばかりあるものだから目についたのだ。

 ──うん、もしかして松本君も知ってる?私が一番好きな作家なんよ。

 いいや知らない、というと、藤村さんは本棚から一冊取り出して、僕に見せた。

 ──これが一番おすすめ。読んでみて。返すのはいつでもいいから。

 『鎖』という題名の本だった。

 そもそも、藤村さんが小説をよく読むということすら僕にとっては意外なことだった。彼女は頭がいいとはいえないほうだったし、国語の成績もそれほどだったと思う。学校で本を読んでいるところも、図書室に行っているところも見たことがなかった。

 ──藤村さんって、本とか、結構読むの?

 ──うん、学校では誰にも言ってないけど、家では割と読むよ。

 藤村さんは比較的最近の人の本を読んでいるらしい。知らない作家の名前が本棚に並んでいた。本にカバーはつけないタイプらしい。

 僕も昔は、「趣味は何?」と聞かれたら迷いなく「読書」というような子どもだった。しかしいまは、別に本が好きというよりは、それを読むことがかっこいいと思うというだけになってしまった。「好きな本は何?」って聞かれて、「太宰治の『人間失格』」って答えたら、なんだか格好いい。そのセリフにはなんだか退廃的で、厭世的なにおいがする。それは大人の世界のにおいだ。これが厨二病だっていうことは分かっているけど、それでもかっこいいとおもう。

 むかしはこんな思いで本を読んでいたわけじゃない。小学生の頃はもっと純粋な思いで本に向き合っていたと思う。父さんの本棚に入っている難しそうな本を、すすんで読み漁っていた。「読みたいから読む」という至極真っ当な理由で本を読んでいた。それがいまは、単に見得のために成り下がってしまっていた。

 ──松本君は?誰の本よく読むの?

 かっこいいのだ。かっこいいのだと思うけど、藤村さんにそのまま言うことはできない。理由を聞かれたら答えられない。「なんとなくかっこいい」というふわふわした見てくれだけでその本を好きだと、「読書が好き」という人間の前で言うことはできない。僕は別の回答を考えることにした。

 ──えっと、たまーに東野圭吾とか読むよ。母さんが好きだから、そのついでに。

 藤村さんは、ふーん、と言って、そのまま黙ってしまった。東野圭吾は地雷だったのか。母さんがよく読んでいるのは本当だ。

 気まずい時間だった。僕は藤村さんが渡してくれた本をぱらぱらとめくって、読んでいるふりをした。内容は全く頭に入ってこなかった。

藤村さんのほうが気になって、本になんか手を付けられなかった。

 僕は再び、帰ろうと思った。僕の脳は未だに、女の子の部屋のにおいに適応できていなかった。香水の風呂に浸かっているみたいな感覚だ。ずっと、息苦しく感じていた。

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