幸福な死

 藤村さんの家は、まだ田んぼの残る小さな住宅街にあった。二階建ての、まあ普通といった感じの家だった。家の前に自転車をとめて、僕は彼女の家に踏み込んだ。

 家には藤村さん以外誰もいなかった。僕は居間のこたつに座った。藤村さんが、キッチンでお茶を注いで持ってきてくれた。僕はとりあえず、数学のテキストを適当に開いて、眺めていた。

 ──えっとね、ここらへんがよくわからんのよね。

 僕の隣に座って、テキストを開いて指をさした。無意識にその指を見つめてしまっていた。これはいけないと思って、その指が指す問題を読む。それは三平方を応用した問題だった。円の接線の長さや、弦の長さを求めろというものだ。

 この分野は入試によく出るからと、塾の先生が度々言っていた。そのアドバイスに従って類題を多くこなしていた僕にとっては非常に簡単な問題だった。僕はヒントを小出しにして、藤村さんが自分で解けるように導いた。三つ目のヒントを言ったところで、「あっ、分かった!」と嬉しそうに、最後まで解ききった。ちゃんと正解だった。

 ──じゃあ次の、この問題のヒントちょうだい。

 僕はなんだか嬉しかった。自分が教えたことで、その人が正解までたどり着いて、それを喜んでいる。それは小林にそうしているときとは何かが違った。小林に教えて、彼女が正答を導けたときももちろんうれしいけれど、今回のそれとは何かが少し違う気がした。はじめての感覚だった。

 藤村さんは小林とは違って、要領がよかった。一を言うと十とまではいかないけど、四、五くらいは理解しているようだった。

 そういうわけで、わからないところは一瞬で片付いてしまった。「終わった!」と言って藤村さんは伸びをした。そのままの体勢で僕に聞いてきた。

 ──松本君って、スマホ、ないの?

 ──うん。なんか、親が厳しくて、高校生からねって。

 ふーん、と、藤村さんは一息ついた。続いて、そっか、と、一息。

 ──あ、でも、スマホはないけどタブレットは持ってるよ。

 お父さんが読書用にと買ってくれていたタブレットを思い出した。買ってくれたのはいいものの、僕は紙の本のほうがまだ好きだったから、それで電子書籍を読むことはあまりなかった。代わりに、無料で遊べるゲームをインストールしたり、親との連絡のためのメールをしたりという使い方をしていた。

 ──その、ラインはできないけど、メールならできるよ。

 そう言って僕は少し後悔した。これじゃあまるで僕が藤村さんとメールをしたいと言っているようなものじゃないか。いや、本当はしたいんだけど、「したい」と直接言っているのと同じだ。

 藤村さんは少し間をおいて笑って、「いいよ、交換しよう」と言って、スマホをとりだした。僕は自分のアドレスのメモを筆箱からとりだして、藤村さんに見せた。彼女はそれを打ち込んで、何か文言を書いて送信した。

 ──帰ったら確認してね、ちゃんと届いてるか。

 ──うん。

 勉強は終わったことだし、僕はそろそろ帰ろうかと筆箱を片付け始めた。ずっと緊張していて、とても疲れていた。好きな人とここまで近い距離で長時間話していたら、一生分の鼓動を使い切ってしまう。もちろん楽しかったけど、今日はもういいと思った。今日はもう充分だ。

 ちょうどその時、玄関が開いて、男子高校生が入ってきた。

 ──おっ、仁菜。もしかして熱々だった?

 それは藤村さんのお兄さんだった。僕たちとはそれほど年齢は違わないはずなのに、とても大人びて見えた。ブレザーを着ているから、ワックスをつけているからそう感じるのだろうか。

 ──お兄ちゃん、そんなんじゃないって!勉強してただけ!

 ──もう部屋でやるから!邪魔せんでよね!

 僕は帰り支度をしていたところを藤村さんに「行くよっ」と引き連れられた。階段の後ろから、「ごゆっくりなー」と意地悪そうな、それでいてあったかい言葉が聞こえた。

 幸か不幸か。いや、幸に違いないが、僕はもう少し彼女の家に留まることになった。

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