立春とは名のみの寒さ

 二月の前半だった。教室は受験勉強にいい加減飽きてきた者が多かった。僕もその中の一人だった。塾の模試では基本A判定、悪くてもB判定だったから、志望校には受かるだろうと思っていた。一方、クラスにはそんな余裕がない奴もいた。でも、諦めたのか息抜きをしているだけなのかわからないが、そういうやつほど勉強をしていなかった。

 考えられる原因はもう一つあった。二週間後に迫るバレンタインデーのことが気になっているというパターンだ。

 彼女がいてもいなくても、この日が気になるのは男子にとって共通の事項だ。一つでももらえれば安泰だ。逆に、誰からも、一つももらえなかったら悲惨だ。その場合は、友達からの「お前何個もらった?」という残酷な質問に対して、二つの選択肢が与えられている。一つは正直に「もらってねぇ」と言って、バレンタインという行事に興味が無い風を装う。もう片方は、「一個」と答える。そうしたらその友達は必ず、「誰から?」と聞く。そこで「お母さん」と自信満々に言って、若干の笑いと哀れな視線を受け取る。どちらにせよ、みじめであることには変わりない。

 僕はほとんど、の人間だった。

 小学生の頃は近所の女子や幼馴染からもらってはいたものの、中学校に入ってからはなかった。幼馴染とは部活も違うし、同じクラスになることもなかったから疎遠になった。

 対照的に、佐藤は毎年、三、四個もらっていた。でも、彼女はいない。いつでもできそうなのに、なぜかお付き合いをするということをしていない。

 僕はそれを、すこしだけうらやましいと思ったことはある。でも、だからといって何をするわけでもない。僕はもらえない側のままでよかった。

 ──松本君、今日って塾、ある?

 振り向くと、藤村さんがいた。僕の心臓はどきどきしだした。今日は塾のない日だったから、答えは「ないよ」の、簡単な言葉でいいはずなのに、なかなか声が出なかった。永遠にも思える二秒間を越えて、僕は何とか絞り出した。

 ──無い、よ。

 ──そうなん?じゃあちょっと、今日は一緒に帰ってくれる?

 僕はたぶん、動揺を抑えきれていなかったと思う。今まで藤村さんと一緒に帰ることはしたことがなかった。そもそも、藤村さんと二人っきりになって、二人っきりで話すことすらなかった。

 いや、待て。まだ二人っきりと決まったわけじゃない。藤村さんは一言も、「二人で」帰ろうなんて言ってないじゃないか。ただ、「一緒に」って言っただけだ。その「一緒」の中には、佐藤や小林、クラスのリーダー的存在の上川や、それと仲がいい千田がいるのかもしれない。大人数の中で、「一緒に」かもしれない。

 浮かれてはいけない。

 ──いい、けど。うん、いいよ。

 それでも僕は、藤村さんと二人っきりで帰るという希望をどこかに持ったままだった。午後の授業中はずっと、藤村さんと何を話すかということを考えていた。

 なんにせよ、僕と藤村さんの間には話題が無さすぎるのだ。同じクラスだから、クラス内で起きた出来事については共有できるけど、それ以外が無い。藤村さんが好きな歌手も、作家も、漫画も食べ物も、趣味も知らないのだ。

 僕にとっては遠い存在過ぎた。

 結局、僕は、発展性のある話題を見つけることもできないまま、一日の終わりの学級活動を迎えた。いつも一緒に帰っている佐藤は何か察したのか、もしくは予め知っているのか、「先、帰っとくわ」とだけ言って教室から出ていった。

 藤村さんは椅子に座ったままだった。僕は持って帰るものと勇気を全部鞄に詰め込んで藤村さんの机に向かった。

 ──藤村さん、帰ろう。

 藤村さんは、手を付けていた理科の宿題のテキストを折りたたんで、僕のほうを見つめた。

 ──帰ろっか。

 教室には藤村さんと僕しかいなかった。杞憂と言うべきか否か、一緒に帰るのは、必然的に二人っきりだった。

 僕は藤村さんが椅子から立ち上がるのを、横で待っていた。藤村さんは帰り支度を終えたら、教室の電気を消し始めた。

 僕はそれを見て、あぁ、そういえばと思って、カーテンを開けて窓を閉める作業をした。

 教室から最後に出る者は、電気を消して、カーテンを開けて括って、窓とドアを閉めて帰らないといけない。藤村さんはこの作業をやっていたのだと、気づいた。

 教室の前後の扉を閉めて、僕たちは歩き始めた。下駄箱までの道のりで、僕たちは何一つ会話をすることができなかった。とても、ぎこちない歩き方をしている感覚、僕の四肢すべての動きに気を払わなければならない感覚だった。

 僕は前を見ていると、藤村さんのほうを勝手に見てしまいそうだったから、ずっと外を見ていた。廊下の窓から見る外はよく晴れていて、空気が透き通っているようだった。どこかでカラスが鳴く音が聞こえた。

 気まずい沈黙が終了するのは、下駄箱について、自分の靴を取り出しているときだった。口を開いたのは僕じゃなくて、藤村さんのほうだった。

 ──ねぇ、今日さ。うち、来る?

 ──え……。

 ──あぁ!えーっと、勉強教えてほしくて。数学苦手だから。松本君得意でしょ?

 あぁ、勉強かと少しは安心した。確かに僕は数学を得意としているし、教えるのも下手じゃないと思う(授業中散々小林に教えていたからだと思うけど)。だから、家に誘ったのはたぶん、藤村さんにとって他意はないのだ。ただ数学を教えてほしいというだけだ。

 それでも僕は緊張を隠せていなかったと思う。

 ──え…っと、うん、いいよ。行く。

 僕たちは一緒に坂を下って、自転車に跨って、藤村さんの家へ向かった。もちろんのこと、藤村さんの家に行ったことはなかったから、僕が彼女の後ろについて、漕いでいった。

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