冷たい教室

 佐藤とは僕の家の二つ前の路地で別れて、僕はとうとう一人になった。これから僕は、塾に行かなければならない。小林たちの話がもう少し長ければよかったのにと思う。

僕は家に帰って、お母さんとすこしおやつを食べて、今日の学校はどうだった、などという話をしているうちに、家を出ないといけない時間になった。

 僕は塾に行きたくない気分を隠しつつ、おかあさんに行ってきますを言った。お母さんは、頑張ってね、といって僕を送り出してくれた。どうしてこんなに優しい親に、塾に行きたくないだなどと言えるだろうか。わざわざ僕のために、安くない授業料を払って、僕を塾に入れてくれているのは両親のやさしさと、僕に対する期待のあらわれなのだ。それを無下にして、塾を辞めたいなどと言えるはずがない。ましてや受験直前であるというのに。

 僕はマフラーを巻いて、自転車に跨った。さっきよりもペダルが重く感じた。

 僕は塾の教室に、授業が始まる二分前に入った。少しでも教室にいる時間を短くしたかった。

 入ると、数人の男子の話し声がとたんに小さくなった。他の男子と女子はとくに変わらない。僕は着席して、テキストを広げて、先生が来るのを待った。幸い、僕が教室に入ってからそこまで時間を空けずに先生も入ってきた。教室は静かになって、先生の、宿題を集めるぞ、という声だけが残った。

 僕は塾の先生は嫌いじゃない。塾の先生の授業はわかりやすいし、おもしろい。先生はユーモアがあって、僕たちの記憶に残りやすいよう意識して授業を組み立ててくれているのがわかる。宿題の添削は、ここまできちんとやってくれるのか、と、こちらが驚くほど丁寧だし、模試の成績が良かった時はご褒美として何かプレゼントをくれる。だいたい千円以内であればなんでももらえる。中学生にとって千円という額はとても大きい。

 僕が塾を嫌いな理由、それは同じクラスの奴らだ。

 僕が塾に入ったのは中一のときだ。この塾は僕の学校の学区外にあって、僕と同じ学校の生徒はいない。そのぶん、クラスのほとんどが白川中学校の生徒で、あとは数人、大学付属中学から、そして僕という構成だった。

 僕は塾に入ったばかりのころ、誰かに話しかけて「塾の友達」を作ろうと思っていたけど、既にグループができていて、そのどれにも入りづらかった。結局今に至るまで塾では独りぼっちだ。それでも三年の秋までは、友達がいなかったというだけで、特にひどい扱いを受けることはなかったし、僕もそのころは、友達がいないから特別塾が楽しみだったわけじゃないけど、かといって行きたくないとまで思うことはなかった。

 たぶん、受験が近づくにつれてそれなりのストレスを抱え始めて、そのはけ口に都合がよかったのが、皆とは違う学校に通っていて塾に友達がいない僕だったのだろう。

 ──えーと、松本君。ちょっと来て―。

 僕は廊下に呼び出された。何か聞かれるのだろうかと身構えたが、それは一瞬にして杞憂に終わった。

──模試の結果、帰ってきたよ。松本君はだいたい問題なさそうやね。ちょっと不安なのは、理科。月ごとにみると、だんだん下がっていってるんよ。まあそれでも危機感を持つほどじゃないけどね。松本君はよくできてるけん、志望校そのまま受けれそうよ、頑張ってね。

 この塾では模試の返却をするとき、一人ずつ廊下に呼んで、先生が講評とアドバイスをする。僕は成績が良かったことと、交友関係について何も勘繰られていないことに安心して、教室に戻った。先生が次の人を呼んだ。

 ──じゃあ次は、泉君。

 そう、こいつだ。こいつが主犯だ。そしてこいつの配下に、安田と奥川というやつがいる。なぜかは知らないけど、今日は、奥川は塾に来てないみたいだ。

 泉は先生に呼ばれて席を立って廊下に出ていくとき、すれ違いざまにいやらしい笑みを僕に投げかけてきた。

 僕は、今日何をされるのか必死に想像した。そのどれをとってみても、陰鬱な気分になった。僕はとりあえず、授業が終わり次第できるだけ早く、且つ泉たちに見つからないように塾を出ようと考えた。運が良ければこれは成功する。今まで数回、この方法で帰ることができている。

 それからはもう何も考えないようにして、テキストの問題を適当に解いていった。問題がわからなくなったら、テキストに落書きをした。とにかく何か書いて、手を動かしていないといけないような気がした。手を止めたら最後、大きなものに飲み込まれてしまいそうだった。

 授業が終わったと同時に、僕は広げていたテキストをリュックに放り投げて、シャーペンを急いで筆箱に入れて教室を出ようとした。

 しかし、儚く僕の希望は潰えた。安田が机と机の間に立って、僕の行く手をふさいできた。僕は、「どいて」とつぶやくのが精一杯だった。

 気づけば後ろには泉がいて、僕は挟まれていた。

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