第10話 雨の日に生まれた少女
父に憧れていた。
父の背中と二本の剣に、オレは憧れていた。
人の上に立てる存在の、父に。
すっかり鳴りを潜めてしまっていたけれど、それでも、人を惹きつける力があった。
そんな父親に、どうしようもなくオレは憧れていて。
強い姿に。凛々しい姿に。
だから、強く在ろうとして——。
人を殴った。
気に入らない奴には片っ端から喧嘩を売り、大人しそうな奴にも喧嘩を売った。
爽快だった。痛快だった。屈服させるのは楽しかった。怯える様を見るのが面白かった。
人の上に立つのは、心地が良かった。
自分の中で、『オレは強い』という感情が芽生えた。
オレは、初めて父さんに殴られた。
泣き腫らした目で訴えるオレを見て、吐き捨てるように父さんは言う。
お前は弱い。
人が流した涙の理由を理解できない奴は、この世のどんなものよりも劣るクズだ。畜生だ。
何より、女の子を泣かせるような奴は男じゃない、と。
——オレはまた、夢を見ていた。
やっぱり夢だと、理解していた。
いい加減見飽きた夢だ。バラバラで取り止めのない、それでいて頭の片隅にこびりつくような夢。実際にあったのかどうかわからないような記憶を、永遠とループするのは、もううんざりだ。
でも、今回の夢はちょっと様子が違った。
雨が降っていたのだ。
激しくはなく、けれど止むことはなく。
……と、今回もオレは気づいた。
廃屋の軒下で、一人の女の子がうずくまって泣いているのに。長い黒髪の女の子だ。近づいてみると、意外と大きい。座ってるからわからないけれど、自分よりも身長が高そうだ。雨で濡れていて見えにくかったが、薄赤くなった目元を見れば泣いているのだとすぐにわかった。
当たり前だけど、なぜ少女が泣いてるのかわからない。ただ、父から教わったことを心に刻んでいるヒロに放っておく選択肢はなかった。
それに、彼女が泣いているのを見るのは辛かった。涙を止めてあげたい、と思った。
——この時から、オレの気持ちは決まっていたのかもしれない。
「どうしたんだ?」
オレは少女に声をかける。
「……誰、でしょうか?」
少女は泣きはらした顔を上げて、首を傾げた。
この子には笑っていてほしいと思った。
「オレは、ヒロっていうんだ」
「ヒロ……?」
「うん、お前は? お前の名前、なんていうんだ?」
「……それは命令ですか?」
「命令なんかしねえよ。言いたくないのか?」
「…………。……スレイ」
「そっか、スレイっていうのか。スレイは、なんで泣いてたんだ?」
なぜか、どうしてもその理由を知りたかった。
「…………」
「おーい?」
「…………」
「スレイ?」
「………………」
名前を言っただけで全然喋らない少女に、さすがに気まずくなって、オレが何を言うか考えていると。ぽつりと。
名前、とだけ少女は言った。
「名前? オレの名前はヒロ……って、さっき言っただろ。……あ、わかった。苗字か! オレはキサラギ・ヒロって言うんだ」
そうではありません、と再び少女は呟く。
「……自分は、自分の名前が嫌いです。大嫌いです。『殺す』などという意味の名前が、嫌いなのです」
どこか抑え込んでいたものが外れたように。
少女は、オレではない誰かに向けて、ぶつぶつと憎しみをぶつけ始める。
「嫌い、みんな嫌いです。みんな、自分を避けます。自分のことを『化物』だって」
「……ひどいな」
彼女の言葉の意味が全部わかったわけではなかったけれど。オレはとても腹が立った。なんてひどいことをするんだろう、と。
「母は死にました。父は……いますが、自分には興味がありません。友達と呼べる人も……いなくなってしまいました」
それは、寂しい。友達と遊べないのも寂しいけれど、父親に愛されてないというのは、オレからすればすごく驚くことで。
だから、どうにかしてあげたいと思った。けどオレは、父親の代わりになんてなれない。
それならば——。
「じゃあ、オレが友達になってやるよ」
「……え?」
女の子はびっくりしたような顔をする。
「あなたが、ですか……?」
「おう。……あー、でもお前のことなんて呼べばいいんだ? 自分の名前、嫌いなんだろ?」
「はい、嫌いです」
その答えに、オレは必死に必死に考えて…………最高のアイデアを思いついた。
「思いついたぞ! お前が自分で名前をつければいいんだよ!」
オレの提案に、少女はよくわからないと首を傾げている。
「……自分自身で名前を決めるのですか?」
「そう! 自分で決めた好きな名前だったら、呼ばれても嬉しいだろ」
「…………たしかに、そうかもしれません」
少し考えて、少女は納得した様子で頷く。
「なんか、考えてみろよ」
「……ですが、いきなり言われても思いつきません。……ヒロは、何かあるのですか?」
「オレが決めていいのか? お前の名前なんだぞ?」
「これはヒロから言い出したことです。だからヒロも責任持つべきだと思います」
「そっか……。えーと、そうだなぁ…………あ!」
迷ったのは数秒。何かが舞い降りたようにピンときた。
「レイン、って名前はどうだ?」
ほぼ迷うことなく出てきた自分の言葉に、自分でも驚いていた。でも、『レイン』という名前が、どうしてか一番初めに思い浮かんだのだ。
「…………」
少女はオレの言葉に何も言わない。やっぱり、雨の日につけた名前だからレインって、雑すぎたのかな……とか思っていると。
ささやくように、少女は言った。
かっこいい、と。
「だ、だろ。かっこいいだろ。絶対スレイよりはいいと思うぞ」
気に入ってくれたのなら何よりと、オレの声が意識しなくても明るくなる。
「レイン…………レイン。雨の日に生まれたから、レイン。すごく、素晴らしいです。安直ですが、そこがまたいいです。自分の名前は——レイン」
繰り返し新たな名前を呟く少女の顔は、ほんのわずかに——でも、ようやく綻んだ。その顔を見れただけで、オレは嬉しかった。
「なぁ、レイン。オレと、友達になってくれよ」
「……はい」
『レイン』はコクリとうなずく。
自分を受け入れてくれたことが、オレにはさらに嬉しくて。
そうして、オレは手を伸ばす。レインはその手を掴むと立ち上がった。やっぱり彼女は、オレよりも背が頭一つ高かった。いつもなら、女の子に背が負けるなんて悔しい、とか考えたかもしれないけど。この日ばかりはむしろ得意げな気分で。
「綺麗だな」
「……綺麗、です」
そこから見える景色は、とてもとても綺麗で。
「お前は化物なんかじゃない。泣いたり、笑ったりできるんだから。——ただの普通の女の子だよ」
思ったことを、正直に言う。
と——、
「……っ、……」
と、ぽろぽろと少女が再び泣き出す。
「えっ、ちょっ……どうしたんだよ⁉︎」
「……いえ、どうして、見ず知らずの自分にここまで……ええ、ここまで優しくしていただけるのか、わからなくて。それで、それで……」
止まらない。感情が止まらない。
その理由がわからない少女は、自分で涙を止めるすべを知らないのだろう。
当然、オレも知らなくて。
「あー、もう! 泣くんじゃねえよ!」
なんとかして涙を止めようと手を差し出したりするが、だからどうすればいいのだと引っ込めたり、右往左往してしまう。
「……! そうだ!」
しかし、ふと思いついたオレは、己の手首に巻き付けていた黒いブレスレットに手をやると、取り外した。ちょっと迷った末に少女の手を取って、たどたどしく結びつける。少女はピクッと動くも、抵抗せずに見守っていた。
「これ、お前にやるよ」
「え……」
「泣きたくなったら、これきもちを込めて、グッとガマンするんだって、母さんが言ってた。だから、お前もそうしろよ」
「でも……これはヒロの……」
「気にするなって。……それにさ」
「……」
「——オレ、お前が泣いてるところ、見たくないんだよ」
聞いて。
少女は無理やり笑った。今度は、表情筋を釣り上げただけの、不自然な笑顔だったけれど。
——それでも、笑おうとしてくれた。
…………次の日、同じ場所。
相変わらず彼女はそこにいた。
そして二人で、たくさんの話をした。
思いつく限りのことを全部。
また、笑えるように。
——話をした。
「えーと、わたしの話し方、そんなに変かな?」
「うん。めちゃくちゃ変だぞ。なんか無理して喋ってる感じ」
「……うーん、鋭いなぁ。もうちょっと、ちゃんと教えてもらえばよかったかなぁ」
「?」
「なんでもないよ。今日はなんのお話しする?」
「……そうだなぁ……。レインはさ、夢ってあるか?」
「将来の夢ってこと?」
「そう! オレは、父さんみたいな英雄になりたい。周りのみんなからすごいって言われる男に、なりたいよ」
「…………わたしは、なんだろうなぁ。……わたしは、うん。家族と幸せに過ごしたいかな。みんなで、一緒に」
「ふーん。普通だな」
「うん、普通だよ。でも、すっごく憧れるんだ」
——話をした。
「ふざけたことを言ってくる奴にはさ。お前は馬鹿だ、って言ってやるといいぞ」
「……ばか、とはどういう意味ですか?」
「なんだよ、知らないのか? 人の嫌なことを言ってくる奴のことを、馬鹿って言うんだよ。絶対にそんな奴は馬鹿に決まってるんだから」
「そう、なのですか……。一応、覚えておきます」
——話をした。
「ヒロは、男の子と女の子、どっちなのですか?」
「どっちって……見ればわかるだろ。男だよ」
「全然、そうは見えません。ヒロはとても、可愛らしいです」
「村のみんなにも、女の子みたいな顔だとか可愛いとかって褒められたことあるけど……そんなの男は嬉しくなんかないんだよ」
「……男の子とは、そういうものなのでしょうか?」
「ああ! かっこいいって言われる方が、絶対嬉しい」
「わかりました。これも、覚えておきます」
——話をした。
「レインはどんな色が好きなんだ?」
「好きな色、は……考えたことありません」
「なんかあるだろ。可愛い色、とか。かっこいい色、とか」
「では……赤、だと思います。初めて見た赤が、一番綺麗だと感じました」
「そうなのか! オレも、黒が一番好きなんだ。なんてったって、黒は『英雄の色』だからな!」
「英雄の色……」
「そうさ。黒は、『どんなピンチにも折れない信念の色だ、って父さんが言ってた。オレにとって父さんは、英雄みたいなものだから。だから、黒は『英雄の色』なんだ」
「…………。わたしも……英雄が好きです」
「なんだよ。レインも英雄になりたいのか?」
「いえ……憧れてる、といった方が正しいです。英雄は私にとって、憧れなのです」
「きっとなれるさ。だって、レインの黒い髪はとっても似合ってるからな。——一緒に黒を、英雄の色にしようぜ」
——オレとレインは話し続けた。
それは、それは、「友達」みたいに。
…………でも、楽しかった場所に大人がやってきた。
「探しましたよ、スレイ様」
「なにすんだ、お前!」
大人たちが彼女の腕を掴んだのを見て、慌てた少年は止めようとする……が、すぐに振り払われる。
「なんだこのガキ…………」
「やめろ!」
「ッ……いい加減にしろ!」
「うわっ」
再び突撃するも、子供からすればとてつもない力で突き飛ばされる。少年は尻餅をついた。
「やめてください……! ヒロに、乱暴しないでください!」
レインは駆け寄って男たちに縋り付く。
必死に、必死に。
「お願いします! どんな命令でも聞きますから……」
「……スレイ様、大丈夫ですよ。少し脅かしただけです。——さあ、帰りましょう」
レインは大人と一緒に、どこかへ・『帰らされようとしていた』。
「レイン……また、会えるよな?」
でも、まだ手は届いたのに。身がすくんで。
尋ねることしかできない。
「わからない。でも、会いたいです」
「じゃあ会おう! 絶対に!」
「それも……命令ではないのですよね」
「命令なんかじゃない! 約束だ!」
必死に強がって。
そんなことは当たり前なのだと、伝える。
「——やくそく」
レインは最後にそう言って……。
その去り際の顔は、寂しそうだったけど、かすかな希望が映っていた。
でも結局、なんの力もなかった子供では、ただ見てることしかできなくて。
少女が連れ去られてから、どれだけの時間が経ったのかわからない。
いつの間にか、夜に、なっていた。
空を見上げると、美しい流れ星が見えた。とてもとても綺麗だった。
けど、寂しかった。悔しかった。……救えなかった。
——だからオレは、剣を振ろうと思った。
はらりと、頬を伝い落ちるものがあった。
あれ……、
オレは誰と何を、話していた?
絶対に、とても、大切な記憶。
オレという人間の根幹の部分が見えたはずなのだけれど。
目に映るは、使い慣れた二段ベッドの天井ではない。白亜の天井。
薄ぼんやりとした魔光石に照らされた病室のベッドの上で、オレはただ、流れ落ちるものをかけ集めようと必死になるが。
——雨の日の情景は、露となって消える。
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