第11話 雨との約束

アイトスフィア歴六三四年七ノ月二四日


 今日も、雨の日だった。

 グラート平原での戦いより五日。そして治療院のベッドの上で昏倒より目覚めて三日。合計八日。オレはようやく立ち上がれるようになった。戦場での傷はまだ癒えていない。

 舞い込んできた情報によると、グレイス隊の生き残りはアッシュとオレ。……そして、幸運にも業火の嵐の中で生き延びた、ヤムハ・グレイスの三人だった。

 部隊の編成に関しては、いったん解散して再編成を待てとのことだった。つまりヒロにとって、ヤムハは直接の上官ではなくなったというわけだ。

 ただ、今のオレには、情報を頭で噛み砕いてる余裕はなかった。

 治癒魔法では、傷は直せても血はすぐに戻らないため(あくまで人体の修復能力を高めるだけなので)、治癒術師からは安静にしていろと忠告されていたが、そんなことはどうでもいい。隙を見て治療院を抜けだした。

 ……全部、思い出したのだ。

 幼い頃、この場所でレインと言葉を交わしていたことを。無責任な言葉だけを残して、なのにそれすらも忘れて生きてきたことを。

 どうしようもない、オレの罪だった。

 ただ、その頃だったろうか。父と一緒に、剣を振り始めたのは。少女の顔も名前も忘れてしまっていたのに、ただ無力感だけが残っていて。それが嫌で、ヒロは剣の教えを乞うたのだ。

 ——自分とレインの関係は、もっと昔から始まっていた。

 久しぶりに通る、歩き慣れた道。地面から発せられる、雨の日の独特の匂いが鼻をくすぐる中、足を引きずりながら坂を登っていく。

 広場の奥にぽつりと佇む小屋。その傍の瓦礫に、いつものように腰掛けた少女は、王都の街並みを眺めていた。

 ……ふと、レインはオレを見やる。彼女の有り様はどこか歪だった。

 まず、彼女は黒かった。髪も、姿も、黒一色。

 しかし何よりも目に入ってくるのは、か細い首にはめられている無機質な、首輪。まるで、何者かに支配されているような、どこか被虐的な——首輪だ。最初は、変わったファッションくらいに思っていたが、今や感じる印象は大きく異なる……。

「戦士にあるまじき、醜い姿だ。自分がどんどん化物になっているのを痛感させられる」

 はたして、それは誰に向けた言葉だったのか。

 言葉を発せないオレに代わって、レインの方から喋りだす。……自分で気づいているのかはわからないが、自身の胸元を掴んだ彼女の拳は、小刻みに震えるくらいには力がこもっていた。

 そんなレインに、オレは、オレは……無責任な言葉を投げかけることしかできなかった。

「お前は化物なんかじゃない。泣いたり、笑ったりできる、ただの普通の女の子だ」

 その言葉を聞いたレインは、陰りのある瞳で、言った。

「…………ヒロはやはり、優しいな」

「優しいわけねえ。……お前がなんであんなに哀しそうな顔をするのか、気づけなかった奴が」

 気づくのが……遅すぎた。

 誰よりも近くにいたのに。彼女は叫んでいたのに。その声は聞こえなくて。

 レインは、どんな気持ちで自分と接していたのだろうか。 

 何も手に入れていないのに、失うことばかり気にしていて。そのくせ何もできなくて。ただ、口ばっかりで。

 思えば、ヤムハがオレに感じていたのは同族嫌悪だったというわけか。

「自分はもう……ヒロとは会えない」

 それは確かな別れを告げる宣告だったが、不思議とあまり驚きはしなかった。彼女の第一声を聞いた時から、わかりきってしまっていた。

 ただただ、虚無感が広がっていくのをかすかに感じ取るとともに、ある言葉が口からこぼれる。

「オレが、弱いからか?」

 愚問だった。そんなこと、自分が一番わかっているはずなのに。

「違う、ヒロが優しいからだ」

 再び。

 彼女は決して、『弱くない』とは言わなかった。言えないだろう。

 どうしようもなく臆病で、弱くて、何かを守る力もない。なのに後先を顧みず……誰かを『守る』だなんて。

 …………言うな。これ以上、何も言わないでくれ。

 お前の言ってることは間違ってる。お前の方がずっと優しい。お前を白日のもとに晒したのはオレなんだぞ? 優しいも何もねえだろうが。

 くだらない……本当にくだらない問答。

 だって、単純な、お話なのに。

 ノールエスト王は、レインの……いや、スレイという存在を公にしただけで。

 彼女は、幼い頃に亡くなったはずの、ノールエストただ一人の王女様だった。

 たったそれだけの、喜ばれるべきお話。

 そして、強大な呪われた力を身に宿し、王国の剣として戦っている。

 たったこれだけの、悲しいお話なのに——。

 ……何も答えを返せないでいるオレに、レインは平坦な声で尋ねる。

「ヒロは、自分が死んだら悲しいか?」

「……当たり前だろ」

 何言ってんだ、こいつは。

 やはり、愚問には愚答で返すのが一番なのだろう。不思議とその問いはしっくりときた。答えを聞き、レインはぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。

「……だが自分は、幼い頃から殺す術だけを叩き込まれて育ってきた。自分の父は、自分のことを道具としか見ていない。死んでも誰も悲しまない。悲しむとしても……重要な戦力コマを失ったことに対する悲しみでしかない」

 断片的ながら、レインの過去が壮絶なものだったことは容易にわかる言葉だった。

 やめろ、もう知りたくない。喋るな。

「だから、死に対する感覚が麻痺していて。敵でも味方でも、どれだけの人間が死のうと、自分自身が死のうと関係ない。——そう、思っていた」

 初めて会った時、見た、レインの暗い瞳。

『その娘……もう、いろいろぶっ壊れちまってんのかもしれねえな』

 彼女の心境について、アッシュと交わした会話が頭に浮かぶ。

「でも、ヒロと過ごして……また、人の『温もり』に触れてしまったから……。今は違う。死ぬのが怖い。怖いんだ。私は——死にたくない」

 レインの顔はいつのまにか、見るに堪えないほど痛々しい面持ちになっていた。あんな顔をさせてしまっている自分が、どうしようもなく情けない。

 クソ、なんでそんなこと今になって言うんだよ。

「だったら……もう、戦わないでくれよ……」

 これ以上、彼女が傷つくのを見たくなかった。

 血? 死体? ふざけるな。

「……できない。今の自分の名は、レインではなくスレイなのだ。自由などあろうはずがない」

 レインは冷たく、だけど寂しそうに言う。

「なん、でだよ。レインは……レインだ。他の何者でもねえ! お前の意思次第でどうにでもなるだろ!」

「……ヒロは、契約魔法というものを知っているか?」

 オレの激情を受け流しつつ、小さく問いかけてくるレイン。

「契約、魔法……?」

「人を奴隷にする魔法のことだ」

 彼女は端的に答えた。

「…………じゃあ……今のレインは無理やり従わされてるってことか……?」

「王の命令には逆らえない」

 操り人形どころではない、主人の命令には逆らえない、哀れな『物』。まさに——奴隷。

 彼女の首を締め付けているものの意味が、容易に理解できる。

「本来ならば、隷従刻印と呼ばれる小さな魔法陣を体に埋め込むものらしいが、王は契約魔法の才能がお有りのようで、『言葉だけで』人と『契約』できる。自分がまだ幼かった頃の話だから、当時のことなど記憶の彼方ではあるがな」

「でも……結局は魔法の力なんだろ? だったら、お前の魔法を殺す力とやらで、解いちまえばいいじゃねえか」

 悪魔みたいな邪悪な力には、同じく悪魔みたいなデタラメな力で押しつぶせばいい。 

「…………たしかに、自分はあらゆる魔法を無効化できる……が、『直接触れなければ』意味がない。他人のものならばともかく、自らの頭の中をいじくりまわすことなどできないだろう? ——だから、どのみち……無理なのだ」

 どこまでも平坦な声で、彼女は言う。

「そんな、ことが……! 一国の王が…………いや、父親が! 娘に対してそんな下劣なことをするなんて、許されていいのかよ⁉︎」

 一人の少女の背負った過酷な運命ちからに便乗して、奴隷のように使役するようなことが許されていいはずがない。

 このクソったれが!

「許されるも何も……王は国で一番偉い人だぞ? そんなことは、子供でも知ってる常識じゃないか」

 違う! そんな諦めたようなくだらない言葉が聞きたかったわけじゃない……。

「……他に、そのクソみたいな魔法は解く方法はないのかよ……?」

 すがるように、問うた。

 そんなものがあれば、とっくにやっているはずなのに。

「……三回。『契約では』、たった三回命令に逆らえば自由になれる。まあ、その瞬間に『罰』が発動するのを気にしなければ、な。自分はすでに二回逆らっているから……あと一回で『終わり』だ」

 さらっと明かされる、全てを終わらせる方法。

 でもそれは、希望と呼べるものじゃなくて。

「……罰が発動したら、どうなるんだ?」

 その先は、簡単に予想がついた。

 聞くな、馬鹿。わかるだろ? やめ————、

 

「————死ぬ」


 予定調和な答えを、レインは小さく言った。

「…………なんだよ……それ」

 つまりオレは、レインの残り二つしかない命綱のうち、一つを引かせたのだ……。

 レインは、今まで耐えてきたもの全部を捨ててオレを助けに来てくれたんだぞ? その代償が、別れを告げる言葉だって?

 ——ああ、クソ。

 こうしてのこのことやってきたところで、結局は力不足で、なんの役にも立たない。

 ただの愚かな『繰り返し』で——。

 ……おいおい、なんにも成長してねえじゃねえか。

 このままでは、自分の手が届かないところに彼女が行ってしまう。

 頬を、熱い何かが伝った。

 涙? 涙を流す資格なんかないのにか? 泣いていいのは、オレじゃなくてレインだろ⁉︎

「——もう自分がここに来ることはない」

 まぶたを薄く閉じて会話を打ち切るレイン。

 口調は『いつも通り』のはずなのに、どこか突き放されたように感じた。

「……っ、待てよ、話はまだ——」

「——嫌いだ」

「へ?」

「私はおまえが、嫌いだ。どうして……どうしてまたここに来た⁉︎ 私の正体を知ったのだろう? 理解したのだろう? 騙って気取って、友達面をして。なのになぜ、恨み言一つ言わない⁉︎ 『気持ち悪い︎』‼︎」

「ッ! そんなこと、オレが……」

 言えるはず、ないだろう。

 気づけなかった方が、どうしようもないオレの罪。

 これも言い訳でしかないけれど、だってお前が好きだったから。

「だから私は、あなたが嫌い。

 嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いな嫌いが嫌いで嫌いで————大切だった」

 それでもレインは、笑った。笑いやがった。

「なんで……今になって、そんなことを言うんだよ」

「…………ヒロは泣き虫だな。男はかっこつけるのではなかったのか? それでも男なのか?」

「……男だ。これでも……」

 最悪に情けない、ただの意地。

 泣き虫だな。女みたいだな。……その通りだよ、クソ。

「じゃあ、最後に教えてやろう。涙は悲しいときじゃなくて、嬉しいときに流すものらしい。……今度こそ覚えておくと、いいかもな」

「…………ッ」

 その言葉には、どうしようもない違和感を感じてしまう。

 違うだろ。そうじゃないだろ。

 レインは、ゆっくりと近づいてきて、そのすれ違いざまに——、


「————さよなら」


 また明日、はなかった。

 足早に彼女は遠ざかっていく。

 まだ、かすかに足音は聞こえる。まだ、声は届くはずだ。

 何か、何かかける言葉は……。

「…………っ」

 言えない。こんな状況で言えるわけがない。お前のことが好きだなんて。

 とても綺麗だけど、少し意地の悪い、そして心優しい少女。

 そんな彼女が、誰よりも……自分よりも大切なのに、言葉一つかけられない。

 ——足りねえ、弱すぎる。

 どんなに強い言葉を塗り重ねても、無力な自分では何も救えないのだから。

 だから、彼女にあんな顔をさせてしまっている。

 別に、多くのことは望まない。全てを救う英雄なんかにならなくたっていい。

 レインと交わした、何気ない会話。当たり前の日常。それがどれだけ大切なものだったか。失って初めて気づいた。

 だから、だからこそ。

 ただ——、


 ——お前の英雄になりたい。


 できることは、一つしかなかった。

 彼女が自分を諦めているというのなら。

 どうしようもない絶望の中で、もがいているというのなら。

 誰かが、助け上げてやるしかない。

 ——ああ、そうだ。オレがやるんだ。

 勢い任せに振り返る。漆黒の後ろ髪は、まだ見える。

「待ってろよ、レイン————」 

 かなり遠ざかってしまった黒い背中に向かって、ヒロは言葉を投げつける。

「————絶対に、助けに行くから!」

 レインは止まらない。それでも、伝えなきゃならない。

 目元を乱暴に拭う。さっき感じた違和感の正体はすぐにわかった。この降りしきる雨が、オレの目には彼女が泣いているように映っていたのだ。

 涙は悲しいときじゃなく、嬉しいときに流すものなのだとしたら。

 そんな涙は、間違ってると思ったから。

「——斬ってやる! どんな悪党になってもいい! お前を縛っているものを全部、オレが斬ってやる‼︎」

 だから——この雨に誓う。


「絶対に! ——絶対にお前を救ってやる……‼︎」


 黒い影は遠ざかっていき、やがて見えなくなる。

 言葉は届いたのだろうか。そんなことは知る由もない。

 ……関係ねえ。聞こえてようが、聞こえてまいが、次にあった時に伝えるんだよ。

 助けに来た、って。

 そのために強くなる。お前を傷つけるもの全てから守れるくらいに。






 ——オレは、お前を救うために戦う。





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