ウサギと籠の鳥

水原麻以

籠の鳥

「私は人を殺しました! でも仕方なかったんです。このままでは私は殺されてしまう。お願いですから誰か助けて!」

悲痛な叫びが粥よりも濃い霧を越えてやってくる。鉛よりも重いまどろみから覚める直前

にそいつが脳細胞をかきむしる。

おかげさまで最悪な気分で一日がスタートする。

出雲真昼いずもまひるは明るい朝の光を浴びて、忌々しげに唸り声をあげた。

だいたい人生の三分の一を費やすという眠りとは何だ。彼は意義を見いだせないまま悶々としていた。足元に絡まるシーツを蹴り上げると雲散霧消した。金属製の床に太陽がぎらついている。やるせない気分で視線を巡らせると雲一つない青空が目に染みる。だだっ広いドームは透明なガラスで覆われていて視界を遮る調度品の類は一切置いてない。

かわりに必要な物は三次元プリンターが出力してくれる。

「観測基地。何か異変は?」

   

天井に問いかけると紙の束が落ちてきた。細かい文字でびっしりと時系列データが書き込んである。彼は基地にベーコンエッグとトーストを焼かせている間に印刷物を読み終えた。とは言っても熟読する必要はない。異常値があれば朱書きしてある。なべて世界はこともなし。真昼はあくびを噛み殺しながら報告書を投げた。紙吹雪がさっと舞う。

いつもと変わらぬ朝の儀式に今さら変化を求める気にはなれない。かつてエアロバイクを駆って地平線の向こうへ探検に出た。そこで彼はトラウマ除去術を施されるほどのトラブルに遭った。もうこりごりだ。

さて、朝食の後は筋トレメニューだ。午前中はストレッチマシンで汗を流して午後から眠るまで観測基地と向かい合う。要所の修理点検、ドローンの整備、AIの調教、万一を想定したVR戦闘訓練、盛りだくさんで退屈を感じる暇がない。太陽が真上にさしかかるころ、クロレラ培養槽のセンサーが鳴った。基地は病変を察知して彼に点検を促した。

トレッドミルがエスカレーターに早変わりする。真昼は短パン姿のまま駆け上がると臨時の作業台がしつらえてあり、ドローンがどこからともなく問題の培養槽を運んできた。

「何だこりゃ?」

真昼は見るなり顔をしかめた。透明テクタイトのケースがどす黒く染まっている。健康なクロレラは深緑色を呈する。かわりに褐色の汚泥が沈殿しているではないか。

「どうして今朝の報告から漏れた?」

    

彼はざっと報告書の内容を振り返った。すべて正常値だった。異変の兆候もない。真っ先に考えられる原因は自己診断システムの故障だ。基地自体の命取りになる。

真昼は午後の予定を繰り上げて基地に点検機材を準備させた。栽培プラントはドームの地階のクリーンルームにあって感染症対策のため人間は出入りできない。

ドローンが運んできたサンプルは氷山の一角だ。状況はもっと酷いのだろう。観測基地は環境に依存せずリサイクルが完結している。外は草一本どころか水もない荒野だ。

機械は信用できない。学んだ知識と経験に従って機器を一つずつ手作業で確かめた。

ことごとく狂っている。観測基地は使い物にならない道具を製造するガラクタと化した。

真昼は孤独死するしかないのか。彼は棚上げしていた自分の死という問題に直面した。

恒天観測員がいなくなって監視網に穴があけば昼間の世界はどうなってしまうのだろう。枕を高くして眠るために誰かと輪番している。その循環が途切れた途端に安全保障が崩壊する。

今日の出雲真昼は世界に対する責任を負っているのだ。

「こんなのどうってことないだろ」

彼は湧き上がる不安を使命感で押さえつけた。そして習った手順に従って観測基地の機能回復に取り掛かった。制御パネルのLEDが一つ消えかかっている。ドーム内に灯っていない照明はない。

    

昼間の世界を妨げとなるからだ。燦燦と降り注ぐ陽光がドームを輝かせ生きる活力を与えてくれる。清々しい気分にさせてくれる音楽や映像も揃っている。真昼は演出に頼らずとも芯が強い。

ドームから一歩も出ることが許されない生活に心身を病まぬよう特別にデザインされた。それでも息も絶え絶えに点滅を繰り返すランプを見ていると気が滅入る。

「所詮、機械は機械さ。道具に怯えるなんてどうかしてる」

彼は自分を奮い立たせた。そして手際よく故障個所を見つけては部品を交換した。太陽が地平線に近づく頃ようやく基地は完治した。

汗だくの身体を超音波で洗い流した後、ぎらつく陽光の下で布団に潜り込んだ。瞼を閉じると赤黒い斑点が透けて見える。兎にも角にも昼の世界は存続する。

「ふーっ、一段落したぜ」

心地よい達成感に包まれて彼は眠りに落ちていった。


「私は人の命を奪いました。殺意はありません。成り行きだったんです。誰か私を助けて」

夢心地を掻きむしる正体不明の叫び。鋭い爪が潜在意識に深々と食い込む。

「うわーっ!」

真昼はまたしても悪夢にうなされた。両目を開けると野性的な太陽が出迎えてくれた。

「レム睡眠が頻発しているようですね。睡眠の質は観測体制を左右します」

観測基地がストレス性の睡眠不足であると診断した。ドローンが錠剤を運んでくる。

出雲は唾液で飲み下し、深呼吸を繰り返した。

「ふーっ、誰なんだよ。女はとっくの昔に全滅したはずだ」

彼は基地に向かって異常を訴えた。これは単なる体調不良ではない。何者かのメッセージだ。

「しかし受信記録はありません。通信回線自体のノイズや侵入の痕跡も皆無です」

基地は真昼の錯覚を指摘した。では彼の第六感を刺激した人物は実在することになる。

「俺の幻聴だと?」

今度は真昼が耳を疑った。恒天観測員が見聞した事物は真実だ。それが不条理であろうと科学に反しようと実在したと公認される。

それゆえに心身の健康が大前提となる。真昼の脳が高速回転して先行き不安を催した。すなわち離職勧告である。

「はい。貴方の感情は穏やかとは言えません」

    

「うるさいうるさいうるさい」

男は激しくかぶりをふると布団に潜り込んだ。彼は自分自身が恐ろしかった。想定外の不調と捉えどころのない我が身の変化、それに追従できない自分。

昨日まで順風満帆だった。最高の遺伝子提供者を持ち健康優良児に生まれた。加速された成長期を成績優秀で過ごし定格試験を難なくクリアした。

人間味溢れる人生経験を刷り込まれ困難に負けない強靭な人格者として調整された。それなのに十年前にたった一度だけミスを犯した。

好奇心に負けて地平線の向こうへ踏み込んだのだ。そして外科手術で除かねばならぬ程のトラウマを抱えた。

彼の雇い主は騒然としたが遺伝子ドナーが政治献金で事故をもみ消した。

そして彼は何事もなかったかのように現場へ戻った。後がない事は重々承知している。系統父の名に懸けて狂った歯車を正さねばならない。

「トレーニングの時間です」

観測基地は容赦なくルーチンワークを押し付けてくる。身体を動かす気分じゃない。

壁に自分の影が落ちている。その輪郭が型抜きのように外れて地獄の入り口が開くんじゃないかと想像した。

「無気力はうつ病の初期症状です」

基地の余計な一言が出雲を突き動かした。

「やる気を見せてやる」

    

ベッドから跳ね起きるとドームの中央へ進んだ。そして意外なことを口走った。

「有人ドローンをプリントアウトしてくれ」 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る