9.誰かとお話するのは好きです

「止めることができず、申し訳ありません。お怪我などはございませんか。……レナータさん?」


 フィヨルドさんが出て行ったあと、いつの間にかぼーっとしてたみたい。シトロンさんがやんわりのぞき込んできてた。相変わらず表情のあんまりない人だけど、心配してくれてるのはよくわかった。


「す、すみません。けがはないです!」

「心のけがというのもありますよ?」

「ほんとうに、大丈夫ですっ」

「ならいいのですが。……まったく、あの人はいつもああなんだから」


 腕も足も軽く組んで、シトロンさん。さっきまでピンと立ってたのが、だいぶ崩れてぐにゃぐにゃだ。こっちのほうがいつもの感じなのかな。


「困りますよね……」

「はい。一番困るのは、顔と声と雰囲気だけで全部押し通してくるところなんですけど」

「渋くてかっこいいおじさま、って感じですよね。正直、さっき誘われたとき、勢いに押されて『いいですよ』って言いそうになりました……」

「慣れてなかったらそうなりますよ。あの好色クズ野郎、顔と声と上っ面さえよければ人生どうにでもなるとわかってるんです。ほんと、あんなのはメスの魚に噛みつかれたらいいのに」


 シトロンさんの身体が真っ赤になる……真っ赤に!? びっくりした。タコだからなんだろうけど。あと口が悪いよ……いやでも、ああいうことを毎日されてるわけだよね、シトロンさん。だったら恨むのも当然かも。どうにかできないかなと思って、おせっかいしてみる。


「役目処のことよく知らないですけど、別のとこの担当に変えてもらうのは……?」

「あいつを野放しにしてたらみんなが迷惑しますから。私がそばで見てなきゃいけないんです」

「つらかったら、いつでもわたしに言って大丈夫ですからね。お話聞くくらいならできます」

「それには及びません。たしかに大迷惑してますけど、私もヤワじゃないので」


 つんと澄ました感じに戻ったけど、なんだろう。言うほどいやそうには見えないような……? わかんないけど、無理してませんかって聞くのも違う気がした。シトロンさんが大丈夫って言うのなら、それでいいのかな。


「――失礼、お見苦しいところを見せてしまいました。潮海衆とは一体何か、どのような役目を仰せつかっているか、お教えしましょう」

「は、はい。お願いします」

「潮海衆とは、この世界に広がる海原すべてと、そこに棲む生物の管理を担当する役目処です。主な神務は3つ。ひとつは海の環境を保全すること。たとえば気象の乱れなどによる生物種の死滅・減少や、船の沈没で海中に投げ出された積荷による海洋汚染。海中の栄養塩濃度の偏り――栄養分は多すぎても少なすぎてもいけません。これらに対処し、海に棲むすべての生物にとって生きやすい環境を維持すること。最も基本的で、重要な神務です」


 わかんない言葉がいくつかあった。栄養塩……? 海洋汚染……? 海をきれいにしよう! ってことなんだとは思うけど。


「なるほどです……村の漁師さんが獲っていた魚がおいしいのは、いい場所で育ってきたから、とか?」

「ええ。あくまで海の生物のためとはいえ、結果的には他の生物も得をしますね。そしてふたつ目の神務ですが、眷属志願者の審査です。眷属はこちらから強制的に引き込むのではなく、あくまで海洋生物の中から志願者を募る形で増員しています」


 眷属さんって、なりたかったらなれるものなんだ……


「もちろん無条件とはいきません。主様に仕える者としてふさわしいか、希望する役目処への適性があるかなどを見極めるために、先ほど述べました審査を行います。ただ、これもレナータ様の担当ではございません」

「ということは……三つ目の神務、ですか?」

「おっしゃる通りです。この神殿は主様の拠点であると同時に、近海に棲む生物の社交場として一部解放されています。朝方から昼前までですが。その中で大巫女には、海の生物との交流と、彼らから相談を受けた場合の対応をお願いいたします」

「はいっ。……あの、相談ってどれくらいの?」


 あんまり大変なお悩みだと答えられないかも。わたしまだ、成人したばかりだし。知らないこと、きっとたくさんだし。


「たとえば『近くに棲んでいる魚と仲良くなりたいけどうまくいかない』や『ヤドカリの新しい貝殻探し』のような、比較的軽いものだけで結構です。ご自身では手に負えないと感じる相談が寄せられましたら、私に報告してください。こちらで解決いたしますので。また、海洋生物に関する知識が必要な場合は、神殿内の書庫をご利用ください。この部屋の隣です」

「頼りになります! ちょっと不安ですけど、誰かとお話するのは好きなので」


 織物の下手な私は村で嫌われてたけど、漁師さんとか、まだ織物を習ってない年下の女の子とかの中には、仲良くしてくれる人もいなくはなかったから。そういう人とはよくお話してた。


「それは大巫女にとって大事な素質ですよ。主様が、遥か高みから冷静に私たちを導く『天海神(あまのわだつみ)』だとすれば、その伴侶――大巫女は、私たち海洋生物に寄り添い、包み込む『地海神(つちのわだつみ)』。海原に天も地もあるものかとお思いでしょうが、このように呼びならわされております。大巫女は海洋生物の精神的支柱であり、癒しの象徴でもあるのです」

「大変な役目、ですね。そっか、わたし眷属さんたちよりえらいんだ……」


「怯えないでください。私たちが支えますので。なお、『私たち』にフィヨルドさんは含まれておりません。あの人をあてにしてはいけない」

「……は、はい」


 潮海衆で一番えらい人なのに……。でも仕方ないよね。


「今日はこのあたりでしょうか。今後とも、よろしくお願いしますね」

「よろしくお願いします、シトロンさん」

「――すみません、最後にひとつ」


 礼をして出ていこうとしたら、真剣な顔で呼び止められた。


「なんでしょう?」

「フィヨルドさんはまぎれもなくクズ野郎です。女に見境ないですし、仕事を部下に押しつけるし、そのくせ手柄は自分のものにしようとするし。周りを自分に都合のいい者で固めるし。ただ、たまーに、本当にたまーーーにだけ、いいところも見せなくはないんですよ。、お伝えしておきます」


 ちょっとだけ、そんな予感はしてたけど。

 ――もしかしてシトロンさん、本当はフィヨルドさんのこと嫌いじゃないんじゃ?

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