6 パートナーの秘密
「もう七時か」
「ん?」
ブランチを終えてから、トイレに立つ以外、ずっとテーブルに座ったまま、ひたすら二人で書き続けていた。交代で書き上げたものを読み合って感想をコメントし、もらった感想を反映して更新するという作業の繰り返し。それぞれの担当分を三話ずつ書き上げると、すっかり夜になっていた。
「疲れたー。こんなに長時間ずっと集中して書いてるなんて、一人じゃ絶対やらないよ」
「そう? これくらいで音を上げるなんてだらしない。私なんか、もっと続けてても平気よ」
「俺はもう腹が減って倒れそうだ。なんだか目もチカチカするし」
「じゃあ、夕ごはんにする?」
よしのんさんは、台所に行ってシチューの鍋に火を付けた。午前中に仕込んで、そのまま寝かせてあったやつだ。
「いつもシチューを食べる時のお皿って、どれ? あとパン皿も」
「どれだろう」
食器棚をあちこち探して、ようやく皿を取り出す。
「トースターは、いつも目盛りいくつで焼いてるの? うちのはオーブンだから、スイッチが全然違うし」
「よくわからないな。適当に5くらいでやってみたら」
「蓮君って、家の手伝い全然やってないでしょ」
「う、うん。ほとんど何もしてない」
「まったく。生活力無さすぎだよ」
テーブルの上に、熱々でいい香りのするビーフシチュー、カリッと焼き上がったトースト、色とりどりの野菜にチーズソースのドレッシングがかかったサラダが並んだ。
「すごいご馳走だな。うちじゃこんな豪華なサラダなんて見たことないし」
「ふふん! さあ、食べよう」
「いただきます」
シチューの肉をひとくち、口にして驚いた。旨味のある肉が、舌の上でほろほろくずれていく。
「お前、料理の天才だな。とろっとろの肉のシチューめちゃくちゃ旨いぞ」
「でしょー。料理できるのか、とか失礼なこと言ったの謝りなさい」
「ごめん。悪かった。料理の腕は最高です」
「えへへへ」
道具はうちの物なのに、出てくる料理が全く違うのは、やっぱり腕の差なのかな。母親にも教えてやってもらいたい。
「ちょっと蓮君。動かないでね」
「なに?」
突然、よしのんさんが、ぐっと近づいてきた。右手を俺の顔の横に持ってくると、頬をすっとなでられる。
「な、なにしてるんだ?!」
心臓がドキドキして爆発しそう。急にどうした?
「口の横にシチュー付けてるから。ほんと子供よね」
口を尖らせながら、おしぼりで指をふいていた。なんだ。驚かすなよ。
ドキドキして息が止まりそうだった。
あっというまに皿は空っぽになり、おかわりした二杯目もすぐに無くなった。鍋も空っぽだ。
「こうやって、朝からずっと一緒に作業して、一緒にご飯食べてると、本当のパートナーって感じだよな」
「ぱ、パートナーって、な、なに言いだすのよ」
あれ。顔が真っ赤になってる。
「いや、パートナーって、コラボしている相手って意味で。変な勘違いするなよ」
「わ、わかってるわよ! デザートのアップルパイ出すから、コーヒー入れて!」
「はいはい」
よしのんさんは、ぷいっと顔をそむけると、皿を重ねて立ち上がりキッチンに持って行った。
「コーヒーって、どこにあったかな」
「もうー、ほんと役立たずね。そこの戸棚の中でしょ」
「ほんとだ。よくわかったな」
「キッチンなんて、一日使ってれば、大体どこに何があるかくらい、わかるようになるわよ」
なんか、住人の俺よりこの家に馴染んでないか?
***
「アップルパイも、おいしかったな」
「そう?」
デザートを食べ終わったが、続きをやる気力もなかったので、キッチンを片付けた後は、ソファーでまったりしている。
「あれなら、ずっといつまでも食べていたいな」
「え、ずっと……?」
「うん。上品で、ずっと食べてても飽きないだろ」
また赤い顔してる。なんか変なこと言っちゃったかな。
「のんびりしてたら、もう九時になるな。そろそろ帰らないと、親が心配してるんじゃないか」
「どうせ、親は遅くまで帰ってこないから平気だよ」
「お母さんも?」
「あいつは、もう家にはいないから」
「え?」
家にいないって、どういう意味だ?
「……ねえ。昼間、話してたこと覚えてる?」
「昼間、話してたこと?」
「家族のことなんか、簡単には話せないってこと」
「あっ」
聞いちゃいけないことだったか。
「嫌われるんじゃないかと心配で、話せないって言ったけど、ほんとはね、聞いてほしいっていう気持ちもあるの。逆に」
「……」
「だから聞いてくれる?」
「う、うん」
よしのんさんは、少しうつむいたまま、静かに話始めた。
「母親はね、私が小学生の時に、浮気して家を出ていったの」
「えっ!」
「出ていく前も、お父さんとは喧嘩ばっかりしてた。出ていってから、お父さんはがっくり落ち込んで暗くなっちゃって。たまに顔を合わせても、母親の悪口ばっかり言ってた」
なんと言ったらいいんだろう。
「お姉ちゃんは、ちょうど美術大学に合格した時で、一人暮らしするって出て行っちゃった。きっと、家の雰囲気が嫌になったんだろうね」
「じゃあ、家にはお父さんと二人ぐらし?」
「そう。でもお父さんも、深夜まで仕事してて帰ってくるの朝方だから」
「……」
「たまの週末に顔を合わせても、目をそらすんだよね。私のことを避けているみたい。嫌われてるのかな」
「……」
「家では、ほとんど私一人ぼっち。本当のぼっちだよね」
ソファーの隣に座って、膝の上に置いた手をずっと見ながら、ぽつり、ぽつりと話をする。
「だからね、小学生の時からずっとお話書いてたんだ。素直な彼女が素敵な彼に可愛がられて、幸せになるお話。ヒロインはね、絶対に浮気なんかしないし、絶対に幸せになるの」
そんな事情があったなんて知らなかった。だから芽依が浮気するプロットを提案した時に、あんなに怒ったんだ。
「ごめん。何にも知らなくて、よしのんさんが嫌がるプロットを無理に入れようとして」
「ううん。私の家の事情なんて、言わなかったのは私だし。ぐすっ。蓮君は真剣に作品のこと考えてくれてたんだもんね。ぐすっ」
よしのんさんは、うつむいたまま涙をこぼし始める。
「ぐすっ。もう少し、ここにいていい?」
思わぬ家庭事情の告白を聞き、どう慰めていいのかもわからなかった。ソファの横に座ったまま、彼女は肩にもたれかかってきた。こんな近くで、肩と髪が触れ合って。
「私ね、一人で家にいる時、自分の部屋の床に座って想像してたの。ふかふかのソファーに座って、隣に人がいて、おいしいものを食べながら、おいしいねって言うの。たったそれだけで、ずっと幸せな気分になれたの。そんな幸せな気分を、どんどん文字にして書いていたの」
肩にもたれたまま、ぽつりぽつりと語り続けた。
「でも、今日、蓮君の隣にいて、おいしいねって言ってもらえて、あれって思ったの。想像していたのと違うって」
「え、違う? 何が?」
「言わない。ばか」
よしのんさんは、俺の肩にぐいぐい顔を押し付けてきた。
こ、この状況で、俺は何を言ったらいいんだ? どうすればいい? よしのんさんは、俺に何を期待してるんだ?
小説なら、ここでぐっと抱き寄せて、キスしてってシチュエーションだよな。もしかしてそれ以上も……
待て待て待て、落ち着け。これは現実で、小説じゃない。間違えたら大変なことになるぞ。
よしのんさんの顔が押し付けられた肩と下半身が熱くなってきた。
心臓がバクバクして苦しい。
とりあえず涙を拭いてもらうか?
「なあ、よしのんさん」
「うん」
「鼻ふくならティッシュ取ろうか」
よしのんさんはパッと顔を上げると、真顔になって叫んだ。
「蓮君のバカー!!」
ああ、やっぱり間違えたみたいだ。
「じゃあ、今日はこれで帰るから駅まで送って!」
何かが吹っ切れたように、よしのんさんは立ち上がって、軽くなったリュックを背負った。怒っているのかと思ったが、目は笑っていた。
「今日は一旦帰るけど、明日また来るから。それまで朝食は食べたらダメだからね」
「ええっ? 何時に来るつもり?」
「そうね。八時には駅に着くようにするから」
やれやれ。でも怒っていないようだし、よかったのかな?
玄関に向かって歩き始めると、いきなり後ろから耳元でささやかれた。
「蓮君のいくじなし」
うわっ! 背中から下半身に電流が流れるように甘いしびれが走る。
やっぱり間違えたんだ……
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