竜と鈴蘭
青空が広がっている。
柔らかな春風が草原を緩やかに駆けぬけ、花壇に植えられた蕾をそっと揺らしていく。
青年はその様子を見つめていた。
まるで揺り籠に眠る赤子を見守るように、ただ静かに。
「やっほー、ディルくん」
ぽん、と肩をたたかれた。
声の主を認めた青年の瞳がわずかに揺らぐ。
「ふっふ~、ひさしぶり」
青年は逃げるように視線を逸らすと、花壇に再び向き直った。
「おや、つれない。まるで初めて出会った頃のようじゃないか」
「…………すまない」
青年は呟く。こんな言葉では到底足りないと理解しつつ。
「かまわないよ。キミが不器用なのは、ようく知ってる」
「……すまない」
「いいってば」
とん、と背中に温かな重さを感じた。
鈴蘭の香りが鼻先をくすぐる。
「キミはやれることをやった。里の誰も責めちゃいないさ」
「…………私は何一つ守れなかった。いまだってあの娘を怖がらせてしまった」
「あっははは――そればっかりはエルシャに怒られるしかないね」
「………………」
「……どこへ行くつもりだい?」
「お前がここにいるということは、私は死んだのだろう。なら、その先は決まっている」
花壇の向こう側を見据える。そこには断絶した崖が口を開けていた。世界の裂け目のような底は見通すこともできない。
青年は崖に向けて一歩を踏み出す。
「まだだよ」
「――?」
「まだキミの命は終わっちゃいない。“あの子たち”が繋いでくれてる。だから、キミはまだ生きてていいんだ。旅に出たっていいんだよ」
少し強くなった彼女の語気に、青年は目を細める。
青年の兄は旅と自由をこよなく愛する人だった。そのことを長として里を離れられない自らの境遇と比べて羨まなかったわけではない。だが――、
「私は自分の立場に何の不満も後悔もない。あるとすれば、暴竜などという禁忌に身を任せてなお、長としての役割を全うできなかったことだけだ」
「だからそれは――」
青年は首を振る。
魔王と勇者の二人が暴竜と化した自分を解放すべくその身を削ってくれたことは理解している。できることならばその恩に報いたいとも思う。しかしそれはどうやら叶わないようだ。なぜなら、
「――アレが来る」
彼女の気配が険しくなった。
「まだ動けるというのなら、私がすべきことは決まっている」
「…………~っ」
ぽかん、と頭をたたかれた。
「あーっ、もう! まったく、キミは本当に融通のきかないヤツだ」
「すまない」
「も~っ。せっかくあの子たちを迎えに行ってもらおうと思ってたのに」
「それは……」
「いーよっ。仕方ないもの。……じゃあ、それはロベリアにお願いすることにしよう」
「ロベリアに?」
はっと振り返ると「ようやくちゃんとこっちを見たね」と意地悪く笑う彼女の姿。
ちょっと待ってほしい、と青年は軽く頭を抱える。
まがりなりにもロベリアとは命の奪い合いまでしたばかりだ。わだかまりがあるどころではない。それにあの娘には子供の頃からずっと怖がられていた。自分も話が得意な方ではなく、とてもではないがまともに会話をできる自信はない。
「だって、わたしは頼めないんだからしようがないじゃないか。キミが、ロベリアに、お願いしておくれ」
「いや――」
「ほらほら、少しはかわいい姪と親族らしいお話をしなよ。キミだって険悪なままでいたくはないだろう?」
「む、ぐ…………わかった。しかし」
「なんだい?」
「…………泣かれは、しないだろうか?」
彼女は一瞬きょとんとした表情すると、腹を抱えて笑い出した。
「あっはははははははは! キミってば、あっはっはっは!」
「大丈夫さ、たぶん」と背中をたたかれる。
強くはないその一押しに、自然と青年の足は一歩、前に進んだ。
「いってらっしゃい、ディルくん。これまでに何度も言ったことだけれど……キミのそういうところ、ううん、それもふくめて。わたしは、キミが、大好きだよ」
青年の口元がかすかに綻ぶ。自分こそ、そんな貴女に何度救われたかわからない。それはきっと、あの木の下で初めて言葉を交わした時からそうだったのだと思う。
「メイベル」
「うん? なんだい、ディルくん」
――ありがとう。愛した人が貴女でよかった。
そう告げると、彼女は風にそよぐ鈴蘭のように、少し恥ずかし気に頷いたのだった。
* * *
「ふん。やっぱり生きてたのね」
目を開けば、どこか兄の面影を残した半竜半人の少女が見下ろしていた。
「……ロベリア」
「な、なによ」
「頼みがある」
「………………………………はぁ?」
あからさまに不機嫌な顔をされた。
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