魔王と少女と暴竜⑤

 ――鳥が飛んでいる。


 手の届かないところを、高く、たかく。

 荒狂う曇天の切れ間から覗けた先は、春の湖面のように透き通っていた。

 穏やかな青色を小さな翼が横切っていく。


 口から微かな息がこぼれた。



   * * *


 

 カラン、と乾いた音をたてて鍬が大地に転がった。

 クリムの渾身の一振りはディルクウェットの側頭部に直撃したが、痺れの残った腕では衝撃に耐えられず鍬が手から離れてしまった。

 防御の爪と腕を砕きせしめた一撃ではあったが、竜人はよろけることもなく顔を大きく背けただけだ。

 雷を受けてさえいなければ、あるいは終わらせることができていたかもしれない。


(バアちゃんならこんなことにならないんだろうけど……)


 少年は自身の不甲斐なさを払うように素手を小さく振ると、指を握りこむ。

 拳を引き両膝に力を入れた瞬間、風にのって“音”が流れてきた。


 ――ああ。


 永い夢からゆるりと浮かび上がり、静かにはじけた泡沫が口から漏れ出たように幽かな吐息。場違いなほどに穏やかで、それでいて深い深い絶望がない混ぜになった“声”が眼前の竜人からのものだと悟った瞬間、クリムは動きを止めてしまう。

 ぎろり――と紅い瞳がこちらを向いた。


 ごっ――。


「?!」


 視界が大きくぶれる。

 一歩二歩とたたらをふんでようやくのだと理解した。


「GuRuAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!」


 少年の顔の半分ほどもあろうかという拳が豪雨のように全身を打ちすえ、小柄な身体が風に翻弄される布きれのように揺れる。

 だが、クリムの視線はディルクウェットにじっと固定されていた。竜人の紅玉のように澄んだ瞳には、戦闘中だというのにどこか戸惑っているようなクリム自身の姿が反射していた。



   ◇ ◇ ◇



 鳥の姿はあっという間に黒雲の陰に隠れてしまった。

 あれは果たして本当に鳥だったのか?

 いいや。きっと違ったのだろう。か細い翼が揺蕩うにはあまりにも高すぎる。


 たぶん、あれは――。


『――――』


 ふと、懐かしい声を聴いた気がして唇をかむ。

 全身を言いようのない怒りねつが駆け巡る。

 沸々と煮えたぎる溶岩のように、感情は醜く溶けて溢れていく。


 ああ――憎い、憎い、憎らしい。


 心が灼ければ灼けるほど両の手は強張り、爪が掌を裂いていく。


『ネェ 知ッテル?』

『貴方ガ  ナッテルノハ 魔王ノ セイ ダッテ』

『ソレハ 病気ナノ 魔王ガ魔王ジャナイカラ 罹ッチャウ不治ノ病』

『困ッタネェ 可哀ソウダネェ』

『出来損ナイノ魔王ノセイデ 貴方ハ 大切ナ人タチヲ ミィンナ殺スノ』


 ああ――恨めしい恨めしい。

 こんなことになってしまった原因まおうが。

 私のよわさが。私を追い詰める世界なにもかもが。



   * * *



 竜人が苦悶の息を吐き出した。

 一方的に殴られるがままだったクリムの拳が、腹部に深くめり込んでいた。


(戸惑っている場合じゃない。迷っている場合じゃない――)


 ディルクウェットがクリムの頭部を打ちすえた。

 衝撃と共に鈍い音がして意識が遠のきかける。

 それでもクリムは止まらない。


「GAAAAAAAAAAAAAAA!!」

「うあああああああああああああ!!」


 雄叫びが交差した。



   * * *



「おいおい……なんだいこりゃあ」


 エレオノーラは深々とため息をついた。

 眼前で繰り広げられているのはただの殴り合いだ。

 技巧も駆け引きも何もない、ただ自分の拳を力任せにぶつけあうだけの、子供の喧嘩。とてもではないが、伝説に謳われるような勇者と竜の戦いとは程遠い。


「クリムよぅ。お前、お嬢ちゃんの影響受けすぎだろ。泥臭いったらありゃしない」


 呆れた口調とは対照的に歴戦の剣士は「まあ」と口の端を上げる。


「考えてみりゃ、あたしの知ってる勇者もこんな感じだったかね」



   * * *



 竜人の拳が触れるたびに、その身に帯びた雷の魔力が皮膚を焦がし、肉を焼き、神経を麻痺させる。

 クリムの意識は瞬きのように明滅を繰り返していた。


 朦朧とした頭のどこかで誰かが囁く。

 このままじゃ押し負ける。

 削り合いなんてしてないで、回避をするべきだ。

 相手も少しずつ弱ってきている。

 持久戦に持ち込めば先に力尽きるのはあちらの方だ。


 クリムは首を振る。

 それじゃあ多分ダメなんだ、と。


 ――なぜ?


 バチン。

 身体を貫いた電撃に意識が弾け、思考が暗転する。


「…………ダメなんだ」


 バラバラになった意識と思考をかき集め、ひとつずつ嵌め直すように少年はゆっくりと呟く。


「きっとそれは……アルがやりたかったことじゃないから」


 クリムには他者の機微がわからない。

 眼前の竜人のにしても、無数の火山弾のような感情の発露をその身に受けてやっと『怒り』なのだと察する始末だ。

 だがその『怒り』も、今ではどこか違ってきている気がする。


 拳をひとつ打ちつけるたびに、ディルクウェットの中にある魔力とは別の――何かが少しずつ削れていくのを感じていた。それがこの些細な変化につながっているのだとも。


 たぶん、これが“アルのしたかったこと”なのだろう。彼女はその身を顧みずに、暴竜のを受け止めようとしていた。方法は違うけれど、ようやくクリムは自分がアルと同じことをしていたことに気がついた。


 ――できるだけ急所は狙うな。


 今さらながらエレオノーラの言葉の意味を理解する。

 どうやら自分に求められていたのは『退治しろ』ということではなかったらしい。

 もうちょっとわかりやすくいってほしい、とクリムは思う。


 ゴキン。


 視界の半分が赤黒く染まり、ちかちかと火花が瞬いた。

 明滅する幽かな光の中に、血に塗れ蒼白な顔で横たわる少女の姿が現れては消えていく。


 ふつふつと胸の奥から、さらに身体の奥底から、押し込められていた力とが湧き上がってくる。それは怒りとも決意とも呼べるものだったが、初めて抱く感情の正体を少年はまだ知らない。


 わからない、わからない。

 よくわからないことばかりだ。

 少し前までの、何も考えずに生きていられた日々の何と簡単だったことか。


 なんにしても、たった一つ。

 これだけははっきりしている。


 ――アルをよろしくお願いしますね。


 あの華奢で臆病な魔族の少女が誰かのために成し遂げようとしたことを、叶えるのだ。



   * * *



 焔の壁が振動するたび、エーファの背中に冷たいものが流れていく。

 中では一体どんな戦いが繰り広げられているのか。これだけの魔力で構成された結界おりを揺るがすなど尋常ではない。


 戦闘の余波が深紅の壁を幕のように容易く歪め、広がった炎が容赦なく肌を炙る。

 暴竜を閉じ込めその魔力から守護するはずの盾は、いまや術を行使するエーファたちすら呑みこみかねない諸刃の剣と化していた。


 熱風から顔を背けた拍子に、横たわったままのアルが視界に入る。

 顔色はいよいよ悪く、瑞々しく桃色だった唇はひび割れ、呼吸も荒い。

 毒に侵された身体に膨大な魔力の消費、加えてこの途方もない熱が彼女の容体を加速度的に悪化させていた。


 できることなら安全な場所までさがらせたいが、もはや無理な話だ。

 距離をとればそれだけ供給できる魔力量が減り、術が弱まってしまう。

 結界はすでに弾ける寸前の泡と変わらず、そんな余裕はない。


(もっとも、アル本人が承知しないでしょうしね)


 彼女はもとよりあの壁の内側に入ることを望んでいたのだから。


(いったい何にこだわっていたのか――)


 エーファから見たアルは、基本的に世間知らずで非力で臆病な女の子だ。しかしこうと腹を決めれば、普段からは想像できない盲目的なまでの行動力を発揮する。

 傍目からすれば無理無謀極まりないが、どうやら本人にはそれなりの確信があるようにみえる。それが自身で導き出したことなのか、あるいは勘や本能のようなものなのかはわからないけれど。


 衝撃。


 波のように盛り上がった緋色の先端が鼻先をかすめる。

 内部の戦闘は激しさをさらに増している。


 限界が近づいていた。



   * * *



「どうして……」


 ロベリアは声を震わせた。

 頬を滴が伝い落ちていく。透明な筋を引いては周囲の熱によって何度も消え失せ、それでも止まることなく肌を濡らす。


 石粒のような水など一瞬で蒸発させるこの場にいながら、握りしめた主の手は悲しくなるほどに冷たい。

 白磁の肌はさらに色を失い、そのまま風景に溶けてしまいそうで、ロベリアは思わず手に力を込めた。


「アル様……いったい、なにを…………あなたは、何を喰らったんですの……」


 おびただしい魔力が主から流れ込んでくる。

 ロベリアはそれらを炎の属性に変換し、エーファの結界へ供給している。消費された魔力は並の魔族を数十揃えても足りない。

 本来ならアルはこれだけの魔力を持ち合わせてはいない。すべてはあの暴竜から奪い取ったものだ。


 ディルクウェットは雷竜であり、属性は雷。そして暴竜と化した後、わざと“魔王”に魔力を喰らわせ蝕むために、強力な毒性を帯びた。

 だがそれだけではない。それだけではなかった。

 この、魔力の奥底で渦を巻く、煮えたぎる汚泥のようにおぞましいはなんだ。

 主の体内をこんなものが流れていた事実に、ロベリアの血が音をたてて引いていく。


 気づけたのは、アルと融合し魔力を共有したロベリアだからこそだろう。

 それはあまりにも異質な魔力だった。


 ――憎い。


 存在を意識するだけでも憎悪が浮かび。


 ――妬ましい。


 触れればたちまちに攻撃的な負の感情が侵蝕していく。


 ――憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、妬ましい、妬ましい、妬ましい、妬ましい、妬ましい、憎らしい、妬ましい、世界が、すべてが、なにもかもが、


「ロベリア」


 凛と澄んだ声に意識をひかれ、我に返る。

 主が自分を見つめていた。

 魔力の高まりによって変化した紅玉のような瞳を目にした瞬間、ロベリアの心臓が小さく跳ねた。


「アル様、アル様…………あなたは……」


 主は困ったように幽かに笑った。


「上手くいくかどうか……なんて、わからなかったから……黙ってたんだけど、ね」


 たどたどしくも軽い口調。それはどこか悪戯の言い訳のようにも似ていた。


「最初はね……ロベリアを泣かせたあいつを、一発殴って……一泡吹かせてやれればいいなって……それだけだったの……ほんとだよ……? でも……」


 ――なんとなく、できそうだったからさ。


 ロベリアは瞳から溢れる涙を止めることができない。

 この人は……一度は危害を加えた自分を、勝手に配下だと自称しておしかけひと月も満たない、信頼にも値しないこんな自分のために、その細く儚い身体が壊れることを知りながらそれでも――魔力と共に、そこに潜む叔父が暴竜と化したまで喰らい尽くそうとしたのだ。


「だって、さ…………たった一人の家族なのに……理由もわからずに憎しみころし合うなんて……苦しつらいじゃない」



   ◇ ◇ ◇



 拳は貝殻のように硬く閉じている。

 はそれを打ち下ろす。


 里長の役割は外敵の排除だ。

 破壊する。

 打ち砕く。

 なんらおかしいことではない。


 だから、

 ふるう、ふるう、ふるう。

 壊れてしまえ。砕けてしまえ。

 そう何度も、

 叩きつける。


 私という個を決定づけた者は二人いる。

 一人は兄だ。

 幼竜の時点で私の魔力は成竜と変わらないほどに大きくなっていた。

 しかし早熟すぎた力を幼竜に制御することは難しく、最も近くにいた存在あにがその犠牲となった。

 しかしそれでも彼は恐れるどころか、私の傍を離れなかった。


「よう。鍛え方教えろよ。どうやったらそんなに強くなれる? あ~、始めからこうだっただぁ? よし、なら力比べしようぜ。魔力は使ってれば鍛えられるって、爺さんたちが言ってたからな。ディル、お前はとうぜん手加減しろよ。……やり方がわかんない? やれ。覚えろ。そうしないとまた俺が怪我するだろ。ちょうどいいじゃんか。お前は力の制御の仕方を覚える。俺は強くなる。一石二鳥ってやつだ。今に見てろよ? 参りました、さすがお兄ちゃん、ってぜったい言わせてやるからな」


 努力の甲斐もなく、兄は私を越えることは終ぞなかった。


「なあ、精霊術って知ってるか? 麓で会ったヒト種に教えてもらった魔力術式なんだけどよ。いやー、よくできてるわ。魔力をほとんど持ち合わせてないヒトが、魔物や魔族に対抗するための創意の結晶だな。……ん? ああ、そうだな。基本的には弱くて話にならん。魔力素の薄い所じゃ、使えても洗濯物が早く乾くだの、火を手っ取り早く起こせるだの、雑用がせいぜいだろうよ。けど、時と場合、それに術師の腕次第じゃ、魔法規模の術式だって不可能じゃないらしいぜ?…………なんだよ、その顔。信じてないな? しゃーない、特別に教えてやる」


 なのに方々を旅し、私に勝つためだと修得した技術や知恵をこちらにまで教えるのだから本当に理解ができない。

 そう正直に告げると、兄は「お前が一つ覚えるなら、俺はさらに十修得すればいいだけさ。そうしたら最終的に勝つのは俺だぞ。きっと」と嘯き、次いで「精霊術ってのは、植物育てんのにも役に立つらしいぞ」と悪戯っぽく笑ったのだった。


 兄はまるで渡り鳥のような人だった。自由で、何ものにも縛られない。

 まさかヒト種の女性と子をもうけるなど、誰が予想できただろう。

 私はそんな兄が好きで、その自由さがうらやましかった。


 それと、もう一人。

 非力な少女だった。

 生まれつき身体が弱かったらしい。魔力も里の中で最も低く、その矮躯は風が吹けば飛んでしまいそうなほど儚かった。

 だからか、彼女はもっぱら読書を好んでいた。

 私と対極の少女だ。まさか関わりがあるなどとは想像していなかったが、いつの頃からか、ふと気づけば彼女が傍で本を読んでいるということが多くなった。


のことが怖くないのかって? 何を言ってるんだい?」


 外見とは裏腹の、大人びてはっきりとした物言いに少々戸惑ったのを覚えている。


「……もしかして、わたしが気づいてないだけで、いつの間にか嫌われてしまっていたのかな?…………ああ、そうじゃない? それはよかった。危うく陳謝するところだったよ。それで、改めて怖くはないのか、と。……ふうん、ならこちらも改めて――何を言ってるんだい? 我々竜種は元来おっとりした性質のものがほとんどだし、じっさい、ウチの里にだって乱暴者はいないだろ。強いといえば里長だけれど、里長の一番重要な役割を知っているかい? みんなを守ることさ。……さて、さて、さて、幼年の中で最も力のある竜のキミ。キミの力は、守るためのものだよ」


 ――怖がる理由なんて、どこにあるのさ。


 大槌で殴られたような衝撃だった。

 次いで彼女はこうも言ったのだ。


「わたしがつきまとってるっていうのは誤解だよ。たまたまお気に入りの場所が、キミのいるところと同じだってだけさ。狭い里だもの。そんなことだってあるだろう? ちょっとちょっと! どこにいくのさ。……わたしの邪魔になるから場所を変える? つれないことを言わないでおくれよ。お互い邪険に思っていないのならそのままでもいいだろうに。融通のきかないヤツだな。……うん? もちろん、わたしは悪く思っていないとも。キミは静かだしね。あれだ、例えるなら木のそばで読書をしているようなものだよ…………ふうむ、キミ、身体も大きいし、もたれるにはちょうどよさそうだね。うん。今度鉢合わせるようなことがあれば、背中を貸してよ」


 さて、私はどう答えたのだったか。

 ただ、その時の彼女が、春に芽吹いた花のように微笑んだことだけは、しっかりと覚えている。

 そういえば私が花壇を作るようになったのは、彼女が花が好きだと言ったことがきっかけだったか。


 ああ、そうだ。


 私は、


 私が、


 したかったことは、


 望んでいたことは――、



 私は閉じられたままの拳を叩きつけた。



   * * *



 左腕が歪な音をたてて動かなくなった。

 両膝の感覚もすでにない。

 クリムはどうやって自分が今立っているのかも不思議なまま身体を動かし続ける。


 突如、全身が総毛だった。

 漂っていた魔力が頭上に渦を巻いて集約していく。


(雷撃!? いや、違う)


 この炎の檻全域に落ちた雷――あれを残り数度放てるだけの魔力を、空を覆う黒雲はまだ内包している。だがこれから為されようとしているのはその程度のもではないと、本能が全力で警鐘を鳴らす。


 空が――墜ちた。


 一瞬にして光の柱が二人を呑み込んだ。

 皮膚が蒸発し、肺が灼ける。

 苦痛の叫びすらも溶けていく。


 だがそれは眼前の竜人も同様だった。

 過剰な魔力は吸収するどころか自身の肉体をも崩している。

 これなら自分が倒れても、相手も無事では済まない。


 ――相打ち……これなら……。


『いいわけないだろうよ』

『いいわけないでしょう』

『いいわけあるか』


 聞き覚えのある声が聞こえた気がした。


 ……………………だよなぁ。


「わかってるよ」


 クリムは小さく頷く。

 最後まで付き合うとも。

 アルから託され、やり遂げると決めたのだから。


「――――っ!」


 叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。

 何も聞こえない。

 耳が潰れたのか、喉が灼けたのか――しかし少年はなも声を出す。


 力を、力を、もっと、力を――

 指にはめた黒の指輪に無数の亀裂が入った。

 金色の輝きがあふれ、クリムの身体を包んでいく。


『――ああ』

 

 吐息が聞こえた。

 視線が交差する。

 そこに狂乱に燃えていた眼はすでになかった。赤い瞳は秋空のように凪ぎ、謝意を伝えるように優しく笑んでいる。

 

 大気すら焼き尽くす光の奔流の中、両者はなおも拳を突き出した。



   * * *



 ひときわ大きな衝撃が結界を襲った。

 紅く不定形の壁は破裂せんばかりに膨張し、表面を荒波の如く焔が乱舞する。


 いったい中で何が起こったのか。

 事態はエーファの予想をはるかに超えていた。

 本当に薄皮一枚辛うじてだが、結界はなんとかもっている。

 しかし――


(内側の魔力にあてられて、炎が……制御できない)


 状況は最悪だった。


(術を再制御……? でもそれだと注いでる魔力を少しの間だけでも弱めるか止めるしか……)


 論外だ。そんなことをすればたちまち結界は内側から吹き飛んで、わたしたちは欠片も残らない。しかし、このままでは遅かれ早かれ炎に呑まれる。


 これでは火達磨になった樽を抱えているようなものだ。中には火薬がたっぷり。

 わたしたちはいつ爆発するとも知れない状況で焼かれ続けている。


「……ロベリア、今すぐアルを連れて全速力で離脱して」

「は?」

「ごめんなさい、わたしの力不足です。精霊術の制御ができません。遅かれ早かれこの結界は吹き飛びます」

「あなたねぇ、アタシとアル様の魔力供給なしで結界はどうするの」

「数秒なら、何とか維持してみせます。それだけあれば、あなたなら逃げ切れるでしょう?」


 ロベリアは沈黙する。

 悔しいが魔力の扱いに秀でた彼女のことだ。わたしの言っていることは十二分に理解しているだろう。そして他に手段がないことも。


「さぁ――」


 急いで。そう告げようとした唇が、柔らかなものに抑えられた。


「却下よ。まったく」

「…………アル?」


 白木のような指先のひんやりとした感触に、急速に頭が冷やされそうになる。

 しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。


「アル、問答している時間はないんです。急がないと――」

「黙りなさい」


 ぴしゃり、と今までにないほど強く言葉を投げつけられた。


「まったく、もう。アンタってば。グエンの時もそうだったけどさ。ウルドに自己犠牲なんて大っ嫌いだって、怒られなかった?」

「…………はい」

「なら、私が言いたいこともわかるわよね?」

「でも他に選択肢がないんです!」


 思わず怒鳴ってしまう。

 本当に時間がないのだ。

 まだ辛うじ制御はエーファの手にある。しかしそれは糸のようにか細く、こんなことをしている間にも焼き切れようとしている。


「だから……落ち着きなさいっての……っ!」


 こつん、と額に弱々しい衝撃があたる。

 アルの透き通るような美貌が目と鼻の先にあった。


「うー……もっとおでこゴンってやるつもりだったのに……力がはいんないわ」

「アル……なにを……」

「あのね、エーファ。それって誰も死なない?」


 そんなわけはない。

 だから被害を最小限わたしだけに抑えようとしているのだ。


「じゃあ、やっぱり却下。だって、わたしの案ならみんな助かるんだもん」

「え?」

「このまま結界を維持するのよ」


 エーファは絶句する。

 この少女は話を聞いていたのか。

 精霊術の制御ができないと、だから結界が破れると、わたしが未熟なのが原因なのだとさっきから言っている。それを――、


「この檻は、もともと私一人で造るつもりだったのよ。それをエレオノーラが私たち三人にまかせたのは、どうして?」

「それは……」

「それに、アンタ。先代勇者の仲間で世界最高の精霊術師の弟子なんでしょう?」

「……………………」

「もっと自信を持ちなさいな」


 でも、でも、現にわたしはできていなくて。

 わたしが未熟なせいで、わたしの失敗で……。

 この手の上にみんなの命が載っている。

 ああ――考えるだけでも震えが止まらない。


「大丈夫。私が保証する。私が誰よりも信じてる。エーファなら絶対できる」


 細い両腕が、肩から背中へ回される。

 全身を包み込むような、優しい抱擁。


「だってエーファは、私の初めてのお友達で。私の一番のお友達で。私が知ってる中で最高で最強の術師なのよ」

「……………………アルが知ってる術師って、わたしとお師匠だけじゃありませんか?」

「あら、そうよ? むしろエーファの精霊術しか見たことないわ! だからエーファが最高最強なの」

「…………なんですか……それ……」

「でも本当よ? エーファは絶対、ハスタなんかよりも強くなるわ。この魔王様が保証してあげる」


 顔を上げれば、深紅の瞳が真っ直ぐに覗きこんでいた。

 凝縮された膨大な魔力による赤色。

 人知を超越したそれは本来ならば畏怖すべきものだ。


「それに、一人で気負う必要はないわ。さっきも言ったでしょう? でやるんだって」


 しかし、不思議とエーファの胸からは違うものがこみ上げてくる。

 熱く、熱く、熱く、しかしてとても安らかな情熱きもちが。

 そうだ、大丈夫。

 この少女となら、きっと。

 エーファの視線を受けて、魔族の少女は笑う。

 病人のように青ざめてはいるが、それでも壮絶なまでに美しく。


「エーファ、ロベリアも。こんな状況で出し惜しみしたって何の役にも立たないわ。遠慮なくわたしの魔力、持っていきなさい!」


 アルの号令に二つの返事が重なる。

 エーファは精神を集中する。

 術の再制御に魔力を弱めるとか供給を止めるなんて消極的なことを考えるのはやめた。

 これはわたしの精霊術で、わたしが構築した術式。

 ならば、


 力づくで制御してやるに決まっている!


「結界を強化、術を再制御化におくまでは炎が強まります! 気をつけて!」

「そんなもん気にしなくていいわ!」


 アルの叫びに反応したように、焔が牙をむいた。大蛇の如く三人を丸吞みにせんと大きく咢を開く。


「――こんな状況でも逃げてないんだもの、それくらいは任せていいんでしょ?」

「もちろんだとも!」


 迫りくる業火の前に屈強な影が立ちふさがる。

 同時に、紅蓮の大蛇が消滅した。

 煙のように跡形もなく。


「“城塞”の頑健さも、“四元”の術の冴えも持ち合わせていない非才の身なれど……この剣の届く限り、キミたちを守護する――その誓いを違えるつもりはないとも。さあ、騎士団最速の剣技、存分にご覧に入れよう! 光翼騎士団六翼が一つ、“閃光”のラーハルト、参る!」


 折れた刀身に突風が集約し、不可視の刃を形作る。

 次々と首をもたげた炎の大蛇を、ラーハルトはことごとく細断し霧散させていく。 風の精霊術と卓越した剣技を複合させた神速無数の斬撃。それこそがラーハルトの真骨頂だった。


「ロベリア、ラーハルトにも魔力供給!」

「んまっ! 属性の違う精霊術二つそれぞれにだなんて。アル様、さすがに魔族使いが荒いですわぁ。できれば終わった後ご褒美が欲しいんですの!」


 不平と軽口を垂れつつも、半人半竜の少女は忠実に主の命令をこなしいていた。

 突風が刀身だけでなく、騎士の軽鎧を包み、炎を受け流す羽衣となる。


「それなら帰ったら二つ、なんでもお願いきいたげる!」

「はーっ?! それはずるいですのよっ! アタシ、どうしたらいいか迷ってしまうじゃありませんの!」

「じゃあ違うのにする?」

「いーえっ! 是非そのままで! このロベリア、全身全霊をかけてやり遂げてみせますわぁ!」


 場違いなほど賑やかな声に、エーファは唇の端を上げる。

 下手をすれば次の瞬間には跡形もなく消し飛んでいるかもしれないというのに、なんてやりとりだろう。

 だが魔力量はどうあれ身体的にアルは限界だ。指一本どころか口を動かすだけでも辛いはずの彼女がそれでも当たり前のように会話をしているのは、エーファやロベリアを鼓舞するために他ならない。


「アル! これが終わったら、わたしからご褒美です! ギュッてしていっぱい撫でてうんと甘やかしてあげますからね!」


 自分で言っておきながら、一人赤面する。

 二人の雰囲気にあてられて、そしてこの頑張りやな年下の少女が無性にいじらしくて愛おしくなって、つい口走ってしまった。


「え、いいの? わたし、甘える時はけっこう全力で甘えるけど?」


 本人は随分と乗り気っぽい。顔が熱いのは、絶対炎のせいだけじゃない。


「まーっ! ずるいずるい、エーファずるい! アル様をギュッとするなんて、そんなの実質あなたへのご褒美じゃないの! アル様ぁ、コイツご褒美っていう名目でいい思いする気満々ですわよ!?」

「そんなに言うなら、ロベリアのもそっちに変える?」

「んもぅ、そうじゃありませんのっ。意地悪ですわ意地悪ですわぁ、アル様。そしてエーファはあのジジイハスタの身内だけあって性根が悪いわ!」

「そんなに言うならロベリアあなたにもやってあげましょうか? 今ならほっぺに口付けキスもしてあげますよ」

「いーらーなーいー!」

「はっはっは、お嬢さん方! 意気軒昂なのは喜ばしいが、そろそろ真面目にだね」


 おっと。つい、二人のノリにあてられてしまった。

 集中、集中。

 けれど、少々緊張がほぐれすぎてしまったらしい。


「…………そういえば、そもそもアルの会った同年代の女の人ってわたししかいないような? だったらわたしが友達で一番なのってあたりまえじゃないかな」


 ふと今さら細かいことに気づいて苦笑する。

 アルにそう突っ込んだところで、彼女は当たり前のように「そうよ」と言い切るだろう。


(まいっちゃうなぁ)


 彼女は……あの元魔王様は、今後なにがあろうと、どんな人物が前に現れようと、エーファが一番の親友であり最高の術師だと宣言したのだ。まだまだ師匠の足元にも及ばない半人前のこのわたしを。

 だったら、それに全力で答えてやろうじゃないか。

 わたしにとっても初めての友人の信頼だ。

 決して裏切るわけにはいかない。


「わたしは――」


 そうだ。ラーハルトさんにも感謝しなくちゃ。

 彼はあえて名乗りをひとつした。それはきっと、わたしの背中を押すためだ。

 謙遜こそしているが、あの気さくな騎士は風の精霊術ならば騎士団で五指に入る使い手である。そしてその師匠は当然――


「ルーネシア王国最高の英雄にして最強の精霊術師ハスタの一番弟子! エーファ・ストラテス、いきます!」


 結界の強化はすでに完了している。

 あとは荒海のような炎を制御するだけ――。


 心が軽い。

 気負いもない。緊張もない。

 今なら、何だってできる。そんな確信だけがある。


 燃え盛れもえろ猛り狂えもえろ焼き尽くせもえろ――汝に触れる悉くを灰にせよ。

 凝縮せよこおれ圧縮せよこおれ収縮せよこおれ――焔の輝きをそのままに。


「――え」


 呆けた声は誰のものだっただろう。

 際限なく膨れ続けていた炎が時間を巻き戻すように急激に収束し――眼前に、巨大な壁が現れていた。

 結界のあった場所をぐるりと囲む円形の塔。

 表面はなめらかで、夕陽を灯した大理石のように美しい。

 しかし、周囲を揺らめく大気の影がその内に秘めた熱量の凄まじさを物語っている。


 ――まだだ。


 エーファははるか上空を睨む。

 地上へ光を振らせている魔力の源がさらに細く凝縮し、それ自体が塔の内部へと下降していく。

 これが正真正銘最後の一撃。


 “塔”ひとつではきっと足りない。しかししまったせいで厚くするには時間がかかりすぎる。

 エーファはすぐにその回答を導き出す。


「火よ――」


 彼女が新たに生み出したのは、普段使役している火鳥型の精霊術だ。

 しかしその大きさは途方もないものだった。

 天を突く巨体。その姿は太陽の化身が顕現したかのようだ。


「ばっ……! 同じ属性とはいえ精霊術の同時使用とか、非常識にもほどがあるわよ!? しかもこの規模の術を二つなんて……。アル様っ、お辛いとは思いますが気張ってくださいませ!」


 ロベリアが驚愕の声をあげる。

 一度に使用できる精霊術は一つだけ。それが世の常識であり、事実、可能な術師は存在しないとされている。

 だが、エーファは知っている。非常識を当たり前のように行う人物を。

 エーファは見ている。ずっと昔にたった一度だけ。それでもその記憶は鮮明に刻まれている。


 火鳥の翼が空を深紅に染める。

 蛍のように淡く輝く火の粉を振り撒きつつ浮かび上がると、塔をその全身で包み込んだ。



   * * *



 光が世界を染めている。

 全てが白く塗られた空間で、クリムの知覚はこれ以上なく研ぎ澄まされていた。


 外の仲間たちの奮闘。

 墜ちてくる、より強い光。

 そして、綺麗な緋色の壁と大きな火の鳥。


 ――うん、みんなは無事か。


『ほれ、ぼやっとしてんじゃないよ』

「バアちゃん?」

『あとはお前がだけさ。ほら、もうひと踏ん張りだ』


 とん、と背中を押された。


「…………」


 長身の男。流れるような白銀の髪。穏やかな光をたたえた赤い瞳。

 身体の各所が腐敗し崩れ変質していた竜人の、本来の姿がそこに在った。


 優しそうな男だ、と少年は思う。

 ディルクウェットが静かに微笑み、クリムは小さく頷くと拳を握る。


 二人は、最後の一撃を繰り出した。



   * * *



 空が抜けるように青い。

 少し前までの曇天が嘘のようだ。


 アルはぐったりと地面に身体を横たえていた。

 指が痛い、腕が痛い、足が痛い、頭も痛い。ていうか内臓まで痛くてものすごく気持ちが悪い。


「アル様ぁ……大丈夫ですの……?」

「だい……じょ、ぶ……」


 大丈夫じゃない、と答えようとして自分の声のひどさに驚いて口ごもる。

 そりゃあ、あんな状況で無理やり声を張り上げていたのだから当然か。

 もしかしたらしばらくは声も出せないかもしれない。


 次々と心配そうな顔が覗きこんでくる。

 ロベリア、エーファ、ラーハルト。


(…………なんか、思ったよりもみんな平気そうじゃない?)


 自分のボロボロさ加減と比べると、なんだかずるい気がする。いや、自業自得だってのは十分わかってるのだけれど。

 少しばかり拗ねていると、三人の背後からひょいとクリムが顔を出した。

 こちらはアルと似たりよったりの傷つき具合だ。


 黒色の瞳がお互いを映し、やがて少年が「ん」と拳を突き出した。

 それだけで少女は理解する。

 どうやらやってくれたらしい。


 ――わたし、何にも言ってなかったのにね。だったら、


 激痛の走る上体を無理くり起こして、応える。

 こつん、と拳と拳がぶつかった。


「よし……」


 満足げに唇を曲げると、アルは再び倒れ込んだのだった。

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