魔王と魔物の森①
――迷った。
目の前には木。
右を向いても木。
左にも後ろにも木、木、木ばっかり。
うんざりして宙を仰いでもやっぱり木。あと少しだけ空。
昏い枝葉の隙間から見える、幽かに白んだ青紫色。
家を出た時はあんなに澄んだ水色だったのに……。
「ここはどこなのよう!」
本人はそう叫んだつもりだが、実際はフニャフニャとした吐息が漏れただけだった。
へなへなとその場にへたり込む。
(こんなことなら大人しく部屋で本読んでればよかったなぁ)
勇者のおばあちゃんの部屋には、本だけではなく地図もあった。
それは魔王城が記載されている地図。
本当に
位置は森の表層辺りで、魔王城に比べればずっと近い。
置手紙にあった場所はここだろうとアルは見当をつける。
あ、これくらいならサラッと行けるんじゃない?――なんて考えた自分のお尻を蹴ってやりたい。
森に踏み込んで然程もたたずに方向を見失い、それでも「あと少し進めば着くんじゃないか」とズルズルと歩き続けた結果、今に至っている。
「…………あー……地図では近そうだったのになー…………拳一つ分くらいしか離れてなかったじゃんかよぅ…………」
そりゃあ、
ふへへ……と疲労のあまり変な笑いが漏れる。
自分が今どこにいるかもわからない。
地図を持ってくればよかった、と後悔しかけたが、どうせあっても方角がわからずに迷っただろうなと思い直す。
バサッ――
突然の頭上からの音に全身をこわばらせる。
鳥か何かが枝から飛び立ったようだ。
よくよく耳を澄ませてみれば、草木のこすれる音とも獣の鳴き声ともつかないものが、あらゆる方向から聞こえてくる。
(そういえば、ここ、魔物の森だった……)
今更ながらに自分の置かれている状況を認識し、全身から血の気が引いていく。
誰もここにアルがいる事を知らない。
勇者が家に戻れば気がつくかもしれないが、彼女を見つけるのはいつになるかもわからない。
(もしかして…………私、ここで死ぬ……?)
魔王城を追い出されて、勇者の家で介護され、魔物に襲われて死ぬの? 魔王なのに?
誰かが聞けばありえない冗句だと笑い飛ばすだろう。しかし、現実は非情で非常識である。
ガサ――
「ひうぅぅ……!」
草むらが揺れ、アルは小動物のような悲鳴をあげて後ずさる。
どんな獰猛な獣が現れるかと涙目で固唾を飲んでいた
小さな動物が見つめていた。
姿は猫に似ている。全身を覆う艶やかで漆黒の長毛は焔のように優雅に波打ち、所々に混じった純白の房毛が上品な意匠のように模様を造っている。萃玉の両目の周囲には金色の毛が縁どられていた。
愛らしい容貌をしつつも気品のある姿に、アルは状況を忘れて見入ってしまった。
――猫、かな? それとも、魔物?
襲ってくる様子はない。
むしろ、アルの姿を認めて、向こうも驚いているようにすら見える。
敵意がないとわかると、このきれいなケモノに興味がわいてくる。
恐る恐る手を伸ばそうとした瞬間――再び草むらが揺れ、さらに大きな影が飛び出してきた。
――フクロオオカミ!?
図鑑で見た覚えがある。
魔力の影響で生態が変化した魔物もどきの一種だ。小型の狼で、腹部に袋を有しており、その中に子供や狩った獲物を入れて行動する。
群れで狩りをすると図鑑には記載されていたが、ここにいるのは一匹だけのようだ。
中型犬程度の大きさの狼一匹。成人男性であれば追い払うくらいどうということのない相手だが、こちらは魔法も使えず貧弱さに定評のある魔王である。しかも疲労困憊で立ち上がるのもままならない。
おそらくは、この真っ黒な毛並みのケモノを狙ってきたのだろう。
フクロオオカミはその体の小ささから、自らより大きな相手を狙うことはめったにない。
だから、かわいそうだとは思いつつも、ケモノがフクロオオカミを連れてどこかへ逃げていってくれることを祈った――のだが。
何を考えたのか、ケモノはスルリとアルの後ろに隠れてしまった。
(何やってんのお前?! 私じゃ、守ってあげられないんだよ!? さっさとどこかに逃げなさいよぉ!!)
小声で非難してみるも、ケモノはどこ吹く風でのんびりと座り込んでいる。
(こいつ、私を壁にする気かっ)
低い威嚇の声に、アルはそろそろと視線を向ける。
フクロオオカミの両眼が剣呑な光を放っている。
この種族、自分より大きな生き物は襲わないが、例外がある。彼らは獲物への執着が強く、一度狙った相手はとことん追い詰める習性を持っている。そのため獲物を横取りされた場合、その相手がどれほど大型の獣であっても奪い返そうとするのだ。
フクロオオカミが牙を剥き、跳躍する。
その動きに反応すらできていなかったアルだが、突如、襟首を引っ張られて仰向けに倒れた。
眼前でバクン、と凶悪な咢が噛み合わされる。
首を狙った一撃を奇跡的に回避したことに安堵する暇もなく、そのままフクロオオカミがのしかかってきた。
慌てて両手をオオカミの首筋にあてて、噛みつかれないように突っ張る。
(いやぁぁあああああ! 顔、怖っ! 牙キバきばキバきばキバ、ちかい近いチカイ近いキバちかい! よだれ、涎がぁあああ!)
「こ、の……どいてよ!」
火事場の馬鹿力だろうか。アルの両手がフクロオオカミの身体を押し返す。
そのままオオカミはアルから離れると、戦意を喪失したようにピスピスと鼻を鳴らし、草むらを乗り越えて姿を消してしまった。
「………………え?」
助かった?
肩で息をしながら、周囲をうかがう。
草むらが音をたてることも、唸り声もしない。
どうやら逃げていってくれたらしい。
「ふあぁぁああぁぁぁ…………こわかったぁあぁ~…………」
脱力してうなだれていると、陰に隠れていたケモノが膝に乗ってきた。
「お前…………よくも盾にしてくれたわね…………」
睨みつけてみたが、涼しい顔で受け流された。
こいつ、誰かに似てるわね。
なんだか釈然としないが、まあいいか、と気持ちを落ち着ける。
「お前が服を引っ張ってくれたから、助かったんだしね」
フクロオオカミの初めの攻撃の際、襟首をくわえてアルを引っ張り倒してくれたのはこのケモノだったのだ。
ありがとね、と艶やかな毛並みを撫でる。
そもそも、この生き物がアルを盾にしなければ襲われることもなかったのだが、さらさらと絹のような触り心地にどうでもよくなってきた。
「お前、何て生き物かな? 猫? それとも魔物?」
両脇を抱えて目の高さに持ち上げてみる。
猫のようなケモノは、深緑色の瞳をくりくりと開いて首をかしげる。
かわいい。
この子、連れて帰っちゃダメかな。
ほのぼのとしたひと時。
しかし、ここは魔物の森である。そんな時間は長続きしない。
獣はオオカミだけではなく。さらにフクロオオカミの執念深さは一度退けられた程度で消えるものではなかった。
彼らは決して体躯に優れた種族ではない。直接的な能力ではただの狼にすら敵わず、肉食の生物ではより大きな獣の方がずっと多かった。
当然、獲物を奪われる機会などいくらでもある。
もとより狼の中でも小柄な種であった彼らが魔力によって変質したのは、ひと所に巣や縄張りを作らず臨機応変に群れで狩場を変えるための腹部の袋であり、知恵であった。
単独でも、群れでも敵わない、そんな外敵に対しての対抗策――より強力な種との共存である。
グオォォォ――
周囲に響き渡る獣の咆哮。
巨大な何かが迫ってくる気配がする。
やがて、メキメキと悲鳴をあげて眼前の木が倒れると、見上げるほど大きな獣が現れたのだった。
「テノビグマ!?」
フクロオオカミは種としての弱さを補うために、テノビグマと共存していた。
テノビグマも魔力で変異した獣で、熊の中では最大の大きさを誇る。外見は熊と大差はないが、名前の通りに腕――前脚が伸びるのだ。普段は短く縮めているが、獲物を狙う際には前腕を瞬時に伸ばし狩りをする。その距離は自らの体長と同じ距離まで届き、馬の首ですらたやすく吹き飛ばす。
大型の体躯と前腕の構造により移動速度は遅く、狩りは苦手である。しかして、フクロオオカミが獲物を狩り、テノビグマが群れの用心棒を務める。そうすることで彼らは、互いの不足を補う生き方を確立していた。
「ちょっと……うそでしょ……」
慌てて立ち上がろうにも、すでにテノビグマの攻撃範囲に入ってしまっていた。
ずんぐりとした巨体が後ろ足で立ち上がる。
太く大きな爪のついた前腕がかすかに動いた気がした。
アルは反応することができない。
ただ、顔に風を感じた。
――あ、死んだ。
恐怖や無念を感じる暇もなく、アルはただ自らが迎える結末だけを覚り、目をつむる。
だが、いつまで経っても予想したそれは訪れない。
「間に合った」
聞き覚えのある声。
――まさか、そんな都合のいいことがあるわけ……。
自分の耳が信じられず、目を見開く。
真っ黒な髪。小柄な体躯。
この数日間、一つ屋根の下で過ごし、見慣れた後ろ姿。
それは人の最大最強の味方。
それは、
これは、古今東西ありえなかった光景。
「困ってるか?」
勇者が、そこにいた。
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